木下夕爾と井笠鉄道と

軽便鉄道をうたった詩人たち[2]

 『軽便の記録』(1974・丹沢新社)という本があった。中学生だった1970年代の半ば、尾小屋鉄道などを訪れて、すっかり軽便にハマってしまった私は、その小さな写真集を何度も繰り返し眺めていた。
 『軽便の記録』の冒頭には、木下夕爾(1914-1965)の詩「晩夏」が載っていた。

「晩夏」(『晩夏』1949・浮城書房)
停車場のプラットホームに
南瓜の蔓が葡いのぼる

閉ざされた花の扉(と)のすきまから
てんとう虫が外を見ている

軽便車が来た
誰も乗らない
誰も下りない

柵のそばの黍の葉つぱに
若い切符きりがちよつと鋏を入れる

 てんとう虫の仕草など、メルヘンを思わせる軽便の光景だが、この詩はいったいどこの路線がモデルなのか。鉄道好きとしては、そのことが気になってしまう。
 木下夕爾は、郷里の広島県福山で薬局を営みながら創作を続けた詩人兼俳人で、『現代俳句大系』第12巻(角川書店・1973)の月報に載った朔多恭の「夕爾と軽便車」には、夕爾の家の近くを走っていた福塩線がモデルとある。
 しかし、市川速男の『-望都と優情- 木下夕爾ノート』(1998・講談社出版サービスセンター)によれば、「あれは、井笠線の風景を思い出して書きました。神辺から井原までの軽便鉄道のことです」と著者が夕爾本人より聞いたという。
 井笠鉄道を本線の笠岡〜井原間でなく、支線の神辺(福塩線に接続)〜井原間といっているのが、福塩線の万能倉(まなぐら)に住んでいた夕爾らしい。この神辺支線は本線より乗客が少なく、詩のように客の乗り降りがない光景も、実際にあったろうと思われる。
 また、尾道北高校の生徒が取材した図書館報には、「今はありませんが鞆鉄・神辺井原間の軽便鉄道をイメージして作りました」と本人の言葉が載っているらしい。
 鞆鉄とある鞆鉄道も郷里の福山から鞆まで走っていた軽便だ。

 だが、「晩夏」のモデルを福塩線と見るのも、決して見当違いではない。福塩線ももとは両備軽便鉄道で、国有化された後も、1935(昭和10)年まではナローゲージだったからである。
 中学時代の夕爾は、住んでいた万能倉から府中の広島県立府中中学(現・府中高校)まで、ナロー(電化されていた)の両備鉄道に乗って通っていた。

 『定本 木下夕爾詩集』『定本 木下夕爾句集』といった夕爾の全集を読んだ私は、意外にも鉄道をモチーフとした作品が多いことを知り、嬉しくなった。

「午前」(1962頃の作)
汽車のけむりが
ゆつくりと
むぎばたけの上にきて消える
白いマスクのような
汽車のけむりの影が
農家の庭の鶏たちを驚かせる
小さな駅と駅をつないで
北へ北へ向かう私設鉄道
もう二度とは見れないだろうと
ぼんやり窓枠にもたれて眺めていた
あの早春の山峡の村々

 「北へ北へ向かう私設鉄道」とは、どこのことだろう。

「停車場にて」(『晩夏』1949・浮城書房)
上りの汽車は出てしまつた
がらんとした構内に
柚の実の匂いがのこつている
これも乗りおくれたらしい婦人がひとり
ベンチにもたれて編みものをはじめている
不正と貼り紙のしてある大時計のおもてに
孵(かえ)らなかつた蛾の卵がひからびている

 これもどこだかは分からないが、ローカル線の駅の鄙びた光景がよく表されている。

「午前」(『笛を吹くひと』1958・的場書房)
踏切番の女が本を読んでいる
南瓜の蔓が遮断機のまねをしている
すぐこの先が海だよ
とかげが走り出て僕を見上げる

 この詩には「晩夏」と同じ「南瓜の蔓」という言葉がでてくる。擬人化した「とかげ」も「晩夏」の「てんとう虫」によく似ている。
 前回の田中冬二もそうだが、夕爾も踏切に興味を惹かれていたようで、幾篇かの詩のほか、「うらがれのはるか遮断機ひかりけり」といった俳句も詠んでいる。

「春の電車」(『児童詩集』1955・木靴発行所)
春の郊外電車
白いつり皮
ぶらん ぶらんしてる
窓からすぎてゆく
あおいむぎばたけ
あかいげんげばたけ
きいろいなの花ばたけ
電車がくの字にまがるとき
電車がへの字にまがるとき
みんないっしょに
ぶらん ぶらんしてる
窓からとびだしたそうに
ぶらん ぶらんしてる

 吊り革の揺れる春の郊外電車は、夕爾が最も親しんだ省線電車の福塩線だろうか。

 このほかにも、呉線と思われる駅の情景を回想した「小さなみなとの町」、汽車が線路に火をこぼし、それが星のように砕けて散ったという「クリスマスの晩」、子供がレールに耳を当てて遠ざかる汽車の響きを聞こうとする「冬」などがある。

*掲載詩の出典
『定本木下夕爾詩集』(1966・牧羊社)
『増補 現代俳句大系』12(1982・角川書店)※『定本 木下夕爾句集』(1966・牧羊社)所収