黒羽英二と成田鉄道と

軽便鉄道をうたった詩人たち[3]

 前回の田中冬二や木下夕爾が、鉄道を題材とした作品を作りながらも、いわゆるマニアではなかったのに対して、今回の黒羽英二(1931-)は大の鉄道マニア、それも軽便や地方私鉄好きの詩人である。

「単端式気動車」(『鐵道廢線跡と』2002・詩画工房)
タンタンシキキドーシャ
と聞いただけで
何故か胸がいっぱいになり
息苦しくなってくる
大正の終りから昭和の初め
ほとんど線香花火のはかなさで
咲いて散った野山の名もない小さな草花
側窓(よこまど)三つの羽目板張りで
屋根はそれでも流行(はやり)のダブルルーフ
T型フォードまがいの四気筒二十馬力のエンジンを積み込んで
正面窓の下にはプロテクターに保護されたラジェーターの四角い口をぱっくり開けて
〈後略〉

 黒羽英二の詩集との出会いはまったくの偶然だった。図書館の、それも何気なく通りかかった郷土資料の書棚で、ふと、背表紙のタイトル文字『鐵道廢線跡と』が目に留まったのである。

「みちのくのちいさなちいさな私鉄悲歌」(『黒羽英二詩集』1983・芸風書院)
〈前略〉
瀬峰(せみね)のホームは小糠雨
四人の男達にえっさえっさと押しまくられて
古い木造客車が一輛ぎしぎし通過して行った
登米(とよま)行の二箱はギヤつきのアンチークガソリンカーで
ぷわあぷわあと警笛で呼び合いながらのギヤチェンジ
土堤の上にはぽかぽかと荷馬車を曳いてる窶れた老馬が
首うなだれて歩いて行った
〈後略〉

 「みちのくの……」にある仙北鉄道の抜粋である。機械式気動車の表現などは、やはり、普通の詩人にはないマニアの視点だ。ちなみに氏は「鉄道マニア」という言葉が嫌いで、「鉄道キ○○イ」、「鉄キチ」と読んでもらいたいとのこと。
 この詩は、福島交通、仙北鉄道、花巻電鉄、羽後交通、秋田市電、秋田中央交通と、東北の地方私鉄を訪れた旅を綴ったもので、作品中、秋田市電が4日前に動くのをやめていたとあることから、1966(昭和41)年1月の訪問と思われる。

「行雲流水湘南軌道」(『鐵道廢線跡と』2002・詩画工房)
〈前略〉
水無川から橋桁も消え
二宮駅貨物ホームの屋根も無く「湘南軌道」の文字も消え
専売公社も秦野煙草も煙と消えた
ただ一色の谷戸の奥
ゲンジボタル幾つか光っては消え消えてはまた光る

 黒羽英二は、現役の地方私鉄を訪れると同時に、早くから廃線跡探索も行ってきた。それも実にマニアックで、廃線跡の詩の題名を挙げてみると、「芋(えも)こ列車谷地(やち)軌道」「無常迅速鹿島軌道」「武州鉄道本来無一物」「行雲流水湘南軌道」など、戦前に廃止されてしまった知られざる路線が多い。


 氏は廃線跡を題材とした幻想小説も手がけている。『十五号車の男』(2009・河出書房新社)は、そんな作品を主に収めた短編集だ。
 「幽霊軽便鉄道(ゴーストライトレイルウエイ)」では、谷地軌道をモデルとした架空の路線、新戸軌道の廃線跡を訪ねるために泊まった古びた温泉旅館で、怪しげな女将や宿泊客に出会う。
 「母里(もり)」では、法勝寺鉄道の廃線跡に残るトンネル内で、亡くなった母に話しかける。トンネルは黄泉の国へ繋がる道、あるいは母親の産道とイメージが重なる。その先の終点は、母の里と書く母里だった。
 2000年以降に書かれた作品では、妻子を亡くした男が、廃園となった遊園地に放置された廃車体の中で一人物思いに耽る「古い電車」など、著者を思わせる6、70代の哀感漂う男性が登場する。
 また、「月の光」は、利根安理というペンネームを用いて1956(昭和31)年に発表した初期の作品で、当時、江戸川乱歩も高く評価したという。軽便鉄道の敷設を夢見る少年と友人の異母兄妹との奇妙な関係を描く。舞台はC県のN鉄道。こうしたイニシャルが記されると、どうしてもそのモデルが知りたくなるものだが、Cのつく県名は千葉しかない。Nは600ミリ軌間だった成田鉄道(千葉県営鉄道)だ。巻末の創作ノートに、親から聞いた成田鉄道の話と、その築堤の跡を探索した記憶が創作の源泉になったとある。

「月の光」
 時々、ぴょうーっという悲鳴に似た警笛を鳴らしながら、山の中を、畑の中を、海岸を走っている姿といったら! 遊園地の豆汽車に毛の生えた程の大きさ。それはもう何といったらいいか、とにかく可愛らしくもまた悲しげなものでした。

 マニアの琴線に触れる表現である。祖父が買ってくれた鉄道旅行図のくだりもいい。

 私は、それを寝る時は枕許に、眼の覚めている限りは、性懲りもなく見続けました。
 名所、旧蹟に想いを馳せていたのではありません。鉄道、ことに地方鉄道の小さな曲線に魅かれていたのです。小さな短い濃藍の曲線!

 「芋こ列車谷地軌道」と題した詩にも祖父から貰った地図がでてくる。それは三省堂が1935(昭和10)年に発行した「最新鉄道旅行図」だった。