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オリエント急行と文学

佐々木桔梗とプレス・ビブリオマーヌ[8]

『オリエント急行と文学』佐々木桔梗
1978.5・限定1035部
プレス・ビブリオマーヌ

 由緒ある由緒あるパリ-イスタンブル間のダイレクト・オリエント急行が廃止になった1977年5月22日の1年後に刊行された。副題は「文学渉猟によるオリエント急行物語」。オリエント急行に捧げる小説や詩などの引用を掲載している。「鉄道ファン」No.193(1977.5)に掲載された「さらば“オリエント急行”」が原型だが、そこで紹介された引用は50点、本書ではその数300点を超える。
 アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』もあれば、夢野久作の『ドグラ・マグラ』のようなオリエント急行と関係のない作品の引用も。
 また、桔梗氏自身の文章も引用。そのなかには1954(昭和29)年に水曜荘より刊行された限定100部の初めての著書『探偵 旅 書物』からのものもある。
 文中には、1906(明治39)年に、ワゴン・リ社が日本の山陽鉄道へ売り込みにきたが実現せず、今日まで日本の線路にワゴン・リの車輛は1輛も走らなかったとあるが、この本が刊行されたちょうど10年後、バブル景気に沸いていた時期に「オリエントエクスプレス’88」が日本各地を走った。

 表紙のイラストは、ドイツのポスターを用いた、今はなき「赤い動輪のある喫茶室 ゼロイチ」のマッチラベル。猫が汽車の煙の上で気持ち良さそうに眠っている。装幀には“サロン車本”(131部)、“食堂車本”(131部)、“寝台車本”(773部)と称する3種類があり、サロン車本(画像のもの)は、白の丸背総革装。『流線形物語』と同様、革装の中にボールベアリングが入れられ、本を振ると列車の走行音のような音を奏でる仕掛けになっている。

佐々木桔梗の作品リスト

佐々木桔梗とプレス・ビブリオマーヌ[16]

*リストは鉄道関連の作品のみ掲載。

◆ プレス・ビブリオマーヌの単行本
『VISITE D’ADIEU “LOCOMOTIVE” 告別の訪問“機関車”』
1969.5
『荷風「ふらんす鉄道物語」』
1973.4
『「濹東綺譚」の汽車・煙草・本』『私家版「濹東綺譚」の冩眞機』
1973.4-5
『流線形物語』
1974.10
『コートダジュール特急』
1975.春
『探偵小説と鉄道 -「新青年」63の事件-』
1975.冬
『ワゴン・リと美しき乗客へのオマージュ』
1977.3
『オリエント急行と文学』
1978.5
『カメラと機関車』
No.1 1970.2・No.2 1970.5・No.3 1971.1
『カメラと機関車 別冊「ロコ・アート」1』
1971.6
『幻想急行』(カメラと機関車 別冊「ロコ・アート」2)
1971.8
『街の中の蒸気機関車』(カメラと機関車 別冊「ロコ・アート」3)
1972.10

蔵書票(エクスリブリス)やイラストなどの付録もビブリオマーヌの本の愉しみ。左は『カメラと機関車』No.3特別版についていた小林ドンゲによるシュールな銅版画。初めて汽車を描いたという作品。

*プレス・ビブリオマーヌの鉄道関連書には、佐々木桔梗の著作以外にも下記のものがある。

『機関車のある風景』清水寥人
1970.10
『列車詩集』山中散生
1980
『転轍手』フワン・ホセ・アレオラ 桑名一博 訳
1980

ビブリオマーヌが1965(昭和40)年に刊行した小冊子『コレクション「サフィール」』と『コレクション《オパール》』。鉄道関連書ではないが、手前の《オパール》No.14には、ジョルジオ・デ・キリコの描いた汽車が掲載されている。

◆ その他出版社の単行本
『探偵 旅 書物』
1954.5 水曜荘
『E くろがねの馬の物語』
1970 プレス・アイゼンバーン

◆ 雑誌掲載の作品
◇「鉄道ファン」
「鉄道趣味と隣り合せの世界」
No.72 1967.6
「鉄道写真随想 鉄道写真のあり方」
No.74 1967.8
「らくらい餘話 -常磐線下り夜行列車群を撮る-」
No.76 1967.10
「東京の屋根の下 越中島貨物線」
No.78 1967.12
「写真随筆 自動乗物と流線形C53」
No.81 1968.3
「続・鉄道写真のあり方」
No.82 1968.4
「写真随筆 御殿場線追想」
No.85 1968.7
「鉄道ファン・フォトサロン 佐々木桔梗作品集・消えゆく都電」「都電への愛着」
No.89 1968.11
「上野のC51」
No.92 1969.2
「“アトリエS”断想」
No.109 1970.6
「“航空視覚”」
No.111 1970.8
「Ventilator 大江山線復活! -1ファンの提案-」
No.114 1970.11
「Ventilator 特別列車 “英国号”始末記」
No.118 1971.2
「カラー“ヨーロッパ汽車の旅”」
「“ヨーロッパ汽車の旅” 鉄道ファン氏の優雅な旅 ゴッタルド/セッテベロ/ワゴンリー/ミストラル」
No.129 1972.1
「ヨーロッパ汽車の旅 英国交通博物館と機関車たち」
No.131 1972.3
「若き蒸機ファンへのポストSL提言その1 鉄道写真と時代背景」
No.148 1973.8
「若き蒸機ファンへのポストSL提言その2 「ポストSL=SL」について」
No.149 1973.9
「若き蒸機ファンへのポストSL提言その3 鉄道趣味への文学的アプローチ」
No.150 1973.10
「若き蒸機ファンへのポストSL提言その4 鉄道写真の決定的瞬間」
No.151 1973.11
「流線形礼讃!」
No.162 1974.10
「“青列車”は紺碧海岸へ向う」
No.165 1975.1
「いや~ 一生の感激です! 英国鉄道150年記念機関車大行進」
No.176 1975.12
「ワゴン・リと美しき乗客へのオマージュ -その伝統と栄光の一世紀に捧げる散文詩-」
No.189 1977.1
「さらば“オリエント急行”」
No.193 1977.5
「メニュー雑感」
No.194 1977.6
「“上野”を撮って40余年……まだ残されている雪女の幻想」
No.196 1977.8
「東京・巴里・倫敦 メトロ・ストーリー」
No.198 1977.10
「田町・品川 思い出のアルバム」(高田隆雄との共著)
No.203 1978.3
「EXLIBRISのすすめ」
No.204 1978.4
「汽車の絵のあるマッチ物語」
No.209 1978.9
「山中散生「列車特集」とアンプ「レール」の紹介」
No.229 1980.5
「線路に響いた名調子 保線の唄」
No.251 1982.3
「リギバーンの古い銅版画に寄せて」
No.273 1984.1
「ヂンタ以来(このかた)-堀内敬三さんをしのぶ-」
No.275 1984.3

◇「鉄道ジャーナル」
「座談会 ルールを守って楽しく撮ろう」(司会)
No.33 1970.3
「鉄道のサービス 私はこう思う イギリスの海中電車と別荘車」
No.116 1976.10
「夢多き世界の特急列車」
No.119 1977.1-No.121 1977.3 連載3回
「鉄道趣味の新しい視座 装本芸術と汽車」
No.125 1977.7-No.130 1977.12 連載6回
「鉄道趣味の内側と外側 ポスターと書物のドラマ」
No.131 1978.1-No.160 1980.6 連載30回
「旅と文学と鉄道趣味 LE TRAIN FOU NHK・FM クロスオーバー・イレブンのための“汽車馬鹿”87の短篇」
No.161 1980.7-No.190 1982.12 連載30回
「半世紀前の超望遠&パノラマ撮影」
No.189 1982.11
「書物の中の贅沢列車」
No.191 1983.1
「明治の鉄道情景 渋沢篤二写真集『瞬間の累積から』」
No.192 1983.2-No.199 1983.9 連載8回
「私の好きな鉄道情景 海外編」
No.200 1983.10-No.207 1984.5 連載8回
「鉄道ジャーナル」に30回も連載された「ポスターと書物のドラマ」。

◇「鉄道ピクトリアル」
「都電新線670メートル」
No.205 1968.1

◇「蒸気機関車」
「鉄道101年目からの鉄道趣味 対談 佐々木桔梗/青山東男」
No.26 1973.7
「オリエント急行と蒸機」
No.38 1975.7

◇「SL」
「ボート・トレイン物語」
No.8 1973.春

◇「とれいん」
「夢多きワゴン・リ寝台車」
No.4 1975.4

◇「旅と鉄道」
「夜行列車への誘い」
No.20 1976.夏

◇「旅」(新潮社)
「鉄路と文学〈書斎の中のヨーロッパの旅〉」
1978.8

◇「カメラビュー クラシックカメラ専科」(朝日ソノラマ)
「わたしの昭和ものがたり 汽車・カメラ・写真書」
No.26 1993.9・No.27 1993.12
「ライカM2で撮ったC62のラスト・シーン 常磐線を行く「第2急行みちのく」の雄姿」
No.28 1994.3

◇「宮沢賢治」(洋々社)
「『銀河鉄道の夜』と機関車 -画集『ジョバンニ』後日談」
No.6 2001.6
「「銀河鉄道の夜」と原風景」
No.17 2006.6

◆ 共著単行本所収の作品
『クラウスよ永遠に』
「クラウスのことなど」
1969.6 西武百貨店
『C52・C53』
「欧亜連絡・シベリヤ鉄道」
1973.10 プレス・アイゼンバーン
『上越線を行く列車』
「川端文学『雪国』の幻想と撮影行」
1977 プレス・アイゼンバーン

田中冬二と草軽電鉄と

軽便鉄道をうたった詩人たち[1]

 草軽電鉄を題材とした詩としてよく挙げられる作品に、津村信夫(1909-1944)の「小扇」がある。

「小扇」(『愛する神の歌』1935・四季社)
嘗つてはミルキイ・ウエイと呼ばれし少女に

指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。
高原を走る夏期電車の窓で、
貴女は小さな扇をひらいた。

 「ミルキイ・ウエイ」と命名したある女性との思い出を綴ったもので、「夏期電車」という言葉が、草軽の「あさま」号などのサマーカーを連想させる(詩はサマーカーの登場以前に書かれたようだが)。
 ちなみに私は、この詩を「とれいん」No.7(1975.7)掲載の、軽井沢の文学と鉄道を紹介した「風立ちぬ」(ぎんがてつどう著)で知った。
 当時の私は中学生、こうした記事を載せた「とれいん」が、とても大人向けの趣味誌に思えたことを憶えている。

 ところで、草軽をモチーフとした詩人はほかにもいた。「とれいん」には紹介されなかったものの、津村信夫と同じ「四季」派の田中冬二(1894-1980)も、幾篇かの詩を残している。

「軽井沢」(『橡の黄葉』1943・臼井書房)
軽便鉄道の踏切りを越すと
燈火の町

アイスクリームをたべて
星あかりに
落葉松の林の中へかへる

 冬二には「軽井沢の氷菓子」と題した詩もある。軽井沢駅で売られていたそれは、レモン味の青色をしたものだったという。

「軽井沢の冬」(『橡の黄葉』1943・臼井書房)
霙(みぞれ)の中の軽井沢の灯
遠く霙の中の軽井沢の灯

今その灯の下には新刊の書物も
黒パンも珈琲もない

今そこにあるものは古錆びた自転車と
炭酸水の空壜(あきびん)と干大根

草津軽便鉄道の踏切の
ベルも鳴らない

 前掲の夏に対し、こちらは冬の情景である。草軽電鉄こと草軽電気鉄道は、1924(大正13)年まで「草津軽便鉄道」と称していた。
 2篇とも踏切がでてくるが、「遠雷」という作品にも「踏切のベルが鳴つて 草津行の電車が過ぎた」とある。また、「草軽線たちにしあとのしづけさや」という俳句も詠んでいるが、これなども踏切の光景だろう。いずれも旧軽井沢駅前の通りを横断していた踏切と思われる。

「信仰」(『故園の歌』1940・アオイ書房)
いつしか慣はしとなり風呂の火をみる度に
私はひとり口の中に云ふ
――軽井沢十分停車 草津線のりかへ と

それから風呂の中では
――天狗の湯 天狗の湯 天狗の湯
鹿の湯 鹿の湯 鹿の湯
白骨温泉 白骨温泉 と
〈後略〉

 かつては風呂といえば薪風呂だった。その風呂を焚くときに、冬二は軽井沢駅のアナウンスを真似るのが口癖だったようである。

 旅行好きだった冬二は、草軽のほかにも鉄道をモチーフとした詩を数多く残している。

「日本海」(『海の見える石段』1930・第一書房)
夜汽車の凍つた硝子に
吐息が描いた猫
ペルシャ産のうつくしい猫
スノー・セットを出ると
窓硝子にアイスクリームのやうな灯(ひ)が映つて
青海(あをみ)といふ駅
しらしらと夜明のうすあかりの中に
日本海は荒れてゐる

 ペルシャ産の猫やアイスクリームといった言葉が可愛らしい。

「林檎の花」(『春愁』1947・岩谷書店)
フランネルのやうに暖い
うすあかるい夕暮
林檎の花々の中を
電燈を点(とも)したばかりの温泉行きの電車が走つてゐる
それはフレッシュな外国製の罐詰のレッテルのやうである

 ここにある「温泉行きの電車」は湯田中へ行く長野電鉄らしい。夕暮れの中の林檎の花と、灯りのついた電車の光景が、なにかの缶詰のラベルを思わせたのだろう。

 変わったところでは馬車鉄道に乗車する随筆がある。1927(昭和2)年に富士を訪れた際のもので、当時は富士周辺に馬車鉄道がいくつか残っていた。文中にある、上井出-富士宮(身延線)間の富士軌道は、1939(昭和14)年まで営業を続けていた。

「三里ヶ原」(『高原と峠をゆく』1955・中央公論社)
人穴から上井出の村へ出た。上井出から大宮―今の富士宮まで、煙草畑の中を鉄道馬車に揺られながら、私は眠つた。
大宮へ着くと、大宮の町は登山客で、まるで祭のやうに賑はつてゐた。

 冬二は1894(明治27)年生まれで、少年時代には、東京の本所区(現・墨田区)や日本橋区(現・中央区)に住んでいたこともあり、銀座通りを走っていた馬車鉄道の思い出を綴った随筆もある。

*掲載詩の出典
『津村信夫全集』1(1974・角川書店)
『田中冬二全集』1-3(1984-85・筑摩書房)

木下夕爾と井笠鉄道と

軽便鉄道をうたった詩人たち[2]

 『軽便の記録』(1974・丹沢新社)という本があった。中学生だった1970年代の半ば、尾小屋鉄道などを訪れて、すっかり軽便にハマってしまった私は、その小さな写真集を何度も繰り返し眺めていた。
 『軽便の記録』の冒頭には、木下夕爾(1914-1965)の詩「晩夏」が載っていた。

「晩夏」(『晩夏』1949・浮城書房)
停車場のプラットホームに
南瓜の蔓が葡いのぼる

閉ざされた花の扉(と)のすきまから
てんとう虫が外を見ている

軽便車が来た
誰も乗らない
誰も下りない

柵のそばの黍の葉つぱに
若い切符きりがちよつと鋏を入れる

 てんとう虫の仕草など、メルヘンを思わせる軽便の光景だが、この詩はいったいどこの路線がモデルなのか。鉄道好きとしては、そのことが気になってしまう。
 木下夕爾は、郷里の広島県福山で薬局を営みながら創作を続けた詩人兼俳人で、『現代俳句大系』第12巻(角川書店・1973)の月報に載った朔多恭の「夕爾と軽便車」には、夕爾の家の近くを走っていた福塩線がモデルとある。
 しかし、市川速男の『-望都と優情- 木下夕爾ノート』(1998・講談社出版サービスセンター)によれば、「あれは、井笠線の風景を思い出して書きました。神辺から井原までの軽便鉄道のことです」と著者が夕爾本人より聞いたという。
 井笠鉄道を本線の笠岡〜井原間でなく、支線の神辺(福塩線に接続)〜井原間といっているのが、福塩線の万能倉(まなぐら)に住んでいた夕爾らしい。この神辺支線は本線より乗客が少なく、詩のように客の乗り降りがない光景も実際にあっただろう。
 また、尾道北高校の生徒が取材した図書館報には、「今はありませんが鞆鉄・神辺井原間の軽便鉄道をイメージして作りました」と本人の言葉が載っているらしい。
 鞆鉄とある鞆鉄道も郷里の福山から鞆まで走っていた軽便だ。

 だが、「晩夏」のモデルを福塩線と見るのも、決して見当違いではない。福塩線ももとは両備軽便鉄道で、国有化された後も、1935(昭和10)年まではナローゲージだったからである。
 中学時代の夕爾は、住んでいた万能倉から府中の広島県立府中中学(現・府中高校)まで、ナロー(電化されていた)の両備鉄道に乗って通っていた。

 『定本 木下夕爾詩集』『定本 木下夕爾句集』といった夕爾の全集を読んだ私は、意外にも鉄道をモチーフとした作品が多いことを知り、嬉しくなった。

「午前」(1962頃の作)
汽車のけむりが
ゆつくりと
むぎばたけの上にきて消える
白いマスクのような
汽車のけむりの影が
農家の庭の鶏たちを驚かせる
小さな駅と駅をつないで
北へ北へ向かう私設鉄道
もう二度とは見れないだろうと
ぼんやり窓枠にもたれて眺めていた
あの早春の山峡の村々

 「北へ北へ向かう私設鉄道」とは、どこのことだろう。

「停車場にて」(『晩夏』1949・浮城書房)
上りの汽車は出てしまつた
がらんとした構内に
柚の実の匂いがのこつている
これも乗りおくれたらしい婦人がひとり
ベンチにもたれて編みものをはじめている
不正と貼り紙のしてある大時計のおもてに
孵(かえ)らなかつた蛾の卵がひからびている

 これもどこだかは分からないが、ローカル線の駅の鄙びた光景がよく表されている。

「午前」(『笛を吹くひと』1958・的場書房)
踏切番の女が本を読んでいる
南瓜の蔓が遮断機のまねをしている
すぐこの先が海だよ
とかげが走り出て僕を見上げる

 この詩には「晩夏」と同じ「南瓜の蔓」という言葉がでてくる。擬人化した「とかげ」も「晩夏」の「てんとう虫」によく似ている。
 前回の田中冬二もそうだが、夕爾も踏切に興味を惹かれていたようで、幾篇かの詩のほか、「うらがれのはるか遮断機ひかりけり」といった俳句も詠んでいる。

「春の電車」(『児童詩集』1955・木靴発行所)
春の郊外電車
白いつり皮
ぶらん ぶらんしてる
窓からすぎてゆく
あおいむぎばたけ
あかいげんげばたけ
きいろいなの花ばたけ
電車がくの字にまがるとき
電車がへの字にまがるとき
みんないっしょに
ぶらん ぶらんしてる
窓からとびだしたそうに
ぶらん ぶらんしてる

 吊り革の揺れる春の郊外電車は、夕爾が最も親しんだ省線電車の福塩線だろうか。

 このほかにも、呉線と思われる駅の情景を回想した「小さなみなとの町」、汽車が線路に火をこぼし、それが星のように砕けて散ったという「クリスマスの晩」、子供がレールに耳を当てて遠ざかる汽車の響きを聞こうとする「冬」などがある。

*掲載詩の出典
『定本木下夕爾詩集』(1966・牧羊社)
『増補 現代俳句大系』12(1982・角川書店)※『定本 木下夕爾句集』(1966・牧羊社)所収