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山口誓子の『黄旗』と『満洲征旅』

満洲の鉄道を詠んだ俳人たち[1]

山口誓子(1901-1994)は汽車好きの俳人だった。関西本線の蒸気機関車を詠んだ句、「遠き汽車俯向き下る春の昼」を解説した『自選自解 山口誓子句集』のなかで、誓子(せいし)はこんなことを記している。

私は、汽車が好きだ。〈略〉蒸気機関車がなくなるというので、それを記録して遺そうという書物が、随分たくさん出版されている。私は、それをほとんどみな買って持っている。

『自選自解……』が刊行されたのは1969(昭和44)年、ちょうどSLブームの頃だ。書棚には関沢新一の写真集などが並んでいたのだろうか。この俳人は相当なマニアだったようである。

誓子は昭和初期に興った新興俳句の旗手としても知られている。
同時代に、新興写真、新興芸術派と呼ばれるものがあったが、そうした動きと同じように、誓子の新興俳句も、スケートリンクやビヤホール、ホテル、工場、飛行機など、近代的で都会的な題材を斬新な手法で捉えた。
「ダイヴィング」と題したなかの一句、「ピストルがプールの硬き面(も)にひびき」は、その代表作。競泳のスタートシーンで、ピストルの音がプールの水面に硬く響いた様子を詠んでいる。

1934(昭和9)年、誓子は満洲を訪れた。当時勤めていた住友の社員として、名目は現地の事業調査だったが、満鉄(南満洲鉄道)幹部の、俳人でもあった三溝又三の働きかけで実現したというこの出張は、誓子に満洲で思う存分俳句を作ってもらおうというものだった。
誓子は満洲での成果をまとめた句集『黄旗』を翌年に上梓すると、それまで師事していた花鳥諷詠を唱える高浜虚子の「ホトトギス」を離れて水原秋桜子の「馬酔木」に参加。秋桜子とともに新興俳句運動を牽引していった。
「黄旗は新興満洲帝国の国旗である。〈略〉私はいま黄旗をはためかしながら、爆音高く、俳界の上空を飛翔するのである。」と、『黄旗』の序文は勇ましいが、誓子は自らの新興俳句と、1932(昭和7)年に建国したばかりの新興国・満洲を重ね合わせたのだろう。

『黄旗』には「特別快車亞細亞号」と題した満鉄の特急「あじあ」を詠んだ句が並んでいる。当時流行の流線形を纏った満鉄の看板列車は、汽車好きにとっては勿論、新興俳句の俳人にとっても恰好の題材だった。そのなかの句を拾ってみる。

汽車はやく枯れし野を日をしりへにす
掌(てのひら)に枯野の低き日を愛づる

2句とも「あじあ」の展望車内での作。車窓からは一面の枯野が後ろへ去っていくのが見えた。その枯野の低く傾いた太陽へ、手を差し伸べて掌に載せると、珠のように愛でてみた。
「あじあ」が大連-新京(長春)間の運行を開始したのは1934(昭和9)年の11月。誓子が満洲を訪れた月であった。もしかしたら「あじあ」の運行に合わせて旅程が組まれたのかもしれない。
誓子は後の1944(昭和19)年に、『黄旗』の句と当時の紀行文を併せた『満洲征旅』を満洲の出版社から上梓しているが、そのなかの一章の「奉天」にも、「あじあ」に乗車したときのことを記している。

特別快車「あじあ」は奉天に向つて走つてゐた。展望車は巡洋艦の艫そつくりで、硝子が後尾に一枚、左右に五枚嵌つてゐる。それを通して軌條と枯野がずんずん退いて行く。
間もなく私は後尾の椅子から私の方へ顔を向けた陸軍の将官に気がついてはつとした。写真で見覚えのある土肥原少将だつたからである。

誓子は関東軍の土肥原賢二少将(後に大将)と同じ列車に乗っていた。土肥原は軍刀に手を置いて坐っていたという。

鞍山を通るとそこらは一面の枯野で、左方に見える大きな工場の内部では紅い熔鋼を注いでゐるのが美しく見えた。なほも走りつゞける列車は、首山・遼陽・沙河を経て奉天に近づいて行つた。都会に近いせゐかさすがに「牛奶糖」と大きく書いたキヤラメルの広告などがはやい速力ですれちがつたりした。

奉天(瀋陽)の街中では小さな路面電車を見かけるが、それが昔、京都を走っていたものと聞いて嬉しくなる。誓子は京都市の岡崎で生まれ、幼年期を過ごした。
この後、湯崗子温泉や撫順炭鉱を巡り、再び「あじあ」に乗って新京へ向かったようだ。「特別快車亞細亞号」にある夕日の句は、この2度目の乗車時の光景だろう。訪問時、「あじあ」の下り列車は、新京へ夕方の5時半に到着した(帰路は朝鮮を経由した。新京-釜山間を走っていた急行「ひかり」に乗車したと思われる)。

新京に着いた翌日、誓子はさらに北を目指してハルピンへ行くが、中露合弁の東支鉄道が満州国に譲渡され、その新京-ハルピン間が広軌(1520ミリ)から標準軌(1435ミリ)に改軌されたのは1935(昭和10)年の8月末。訪れたのはその前年で、まだワゴン・リの走る東支鉄道だった。誓子は運行開始間もない「あじあ」とともにワゴン・リにも乗車するという貴重な体験をしたことになる。
『黄旗』にも「ワゴン・リイ」と題した句が並ぶ。そのなかの句を拾ってみる。

碧き眼の露西亞乗務員の眼に枯野
氷る河わたる車室の裡白(しら)む

列車が松花江を渡るとき、急に車内が白くなった。それは凍結した川が反射したものだった。誓子は車内にいながら川の冷たさを感じた。
東支鉄道のワゴン・リといえば、里見弴も『満支一見』のなかで、その豪華なコンパートメントを紹介しているが、『満洲征旅』にも「東支鉄道」という一章がある。車内に加え、新京からハルピンに至る車窓の印象も詳細に記した名随筆なのだが、なぜか『山口誓子全集』には収録されていない。

実に巨大な列車であつた。私はその傍を通つて機関車の直ぐ次の車体の踏段(ふみだん)に足をかけた。内部に入ると右側は車窓で狭い廊下が、扉を閉ざして並んでゐる幾つかの前に通じてゐた。私はその一つに入つた。

そのとき私は、去りゆく新京駅の構内に青いあじあ号の停つてゐるのを見た。私の眼にはいま動き出した列車があじあ号よりも一まはり大きいやうに思はれた。大連に上陸して先づあじあ号に驚いた私は、こゝで再び東支鉄道の車体に眼を瞠(みは)らずにはゐられなかつた。

駅を出外れると夥しい鵲がおどろいて中空に飛散した。しかしそこを過ぎれば、またもとの枯野であつた。既に見て通つた枯野が再び北の方から現はれて眼前を通り過ぎるやうに思はれてならなかつた。機関車からはいつも同じ煙があとからあとから出て来た。

全文を引用できないのが残念だが、その一部だけでも最果てを行く列車の雰囲気が伝わってくる。
半日の間、枯野を走り、やがてロシア正教の寺院が見えるようになると、そこがハルピンの街だった。

『黄旗』には満洲に渡る以前の作品も収められている。そのなかの「大阪駅構内」と題した句の一つ、「夏草に汽罐車の車輪来て止る」も誓子の代表作。夏草の生い茂った構内の外れで目にした光景を映像のように捉えている。
大阪駅が高架に変わる1934(昭和9)年6月の前年の作で、その頃、大阪に住んでいた誓子は、幾度となく大阪駅に通い、入場券を払ってホームの機関車などを眺めていたという。この句は、こうしたマニアックな観察から生まれた。