荻原井泉水の『しら菊集』と『東西南北』

満洲の鉄道を詠んだ俳人たち[2]

荻原井泉水(1884-1976)は、五七五の定型に捉われない自由律俳句の先駆者で、「層雲」を主宰、その門弟には漂泊の俳人として知られる尾崎放哉や種田山頭火がいた。
特に放哉は一高の同窓生で、井泉水(せいせんすい)の1歳年下。二人は共同生活をしていた時期もあり、師弟であるとともに親友でもあった。
放哉が41歳の若さでこの世を去ったとき、井泉水は放哉が暮らした小豆島の南郷庵を訪れ、「遺言状も見えないふるい机が一つ」など、「放哉告別」と題した句を数多く詠んでいる。

井泉水はまた、国鉄総裁を務めた“新幹線の父”こと、十河信二とも旧知の仲で、一高の同級生だった。十河も春雷子と号して俳句を嗜んでいたという。
十河は東海道新幹線建設の予算超過の責任を負い、その開通を目前とした1963(昭和38)年に国鉄総裁を退任するが、井泉水はそんな折に十河と会って、「見せて、萩はいい花とひまになった君と見る」と、閑居する二人の姿を詠んでいる。

井泉水は海外詠の分野でも草分けで、1937(昭和12)年にはメキシコ、アメリカ西海岸、ハワイを巡り、各地で俳句を作った。
満洲には1940(昭和15)年の9、10月に旅行。ただし、これは観光というよりも満鉄の厚生課の用務を帯びたもので、講演や座談会が続くハードな日程であったという(ちなみに前述の十河信二は、この2年前まで満鉄の理事を務めていた)。

旅程の記録と俳句から、朝鮮の釜山より満鉄安奉線経由で奉天に入り、満鉄撫順線(あるいは奉吉線)で奉天-撫順間を往復、満鉄連京線で奉天より新京、京図線で新京-吉林間を往復、京浜線で新京よりハルピン、浜綏線でハルピン-牡丹江間を往復、浜洲線、平斉線、満鉄連京線と乗り継ぎ、ハルピンからチチハル、四平、奉天、奉山線で奉天-錦県間を往復、さらに満鉄連京線で奉天より大連と巡ったことが分かる。
幹線の大連-ハルピン間だけでなく、満洲各地の路線に乗っているのが興味深い。

満洲を詠んだ俳句は1940(昭和15)年の『しら菊集』に収められている。新京での「影絵芝居」から「遼陽の仏」まで、その途次の列車で詠んだ句も多い。

枯野に大きなひまはりの花、そこに停車する

「影絵芝居」の「展望車にて」と副題のあるなかの一句。井泉水が辿った行程から、この句の列車は新京からハルピンに向かう途中の「あじあ」と思われる。なお、京浜線のこの区間は線路が貧弱だったため、「あじあ」も新京で牽引する機関車を流線形のパシナから小型のパシサに交換した。

警護兵に見おくられてからは薄に日の照るばかり

「満洲里行」のなかの一句。「哈爾浜より満洲里行に乗車す、車窓より眺むるところ、斉斉哈爾まで」とある。浜洲線の茫漠とした風景を詠んでいる。

鄭家屯までは停らない車輪の音にじつと眼をつむり

「日日日ハ西ニ没ス」より。「斉斉哈爾より平斉線車中」とある。列車は四平へ南下、鄭家屯はその途中駅だった。

展望車の貧しい書棚と展望のかぎり枯れてゐる

「日日日ハ東ヨリ出ヅ」より。「奉天より大陸号にて」と副題がある。「大陸」は釜山-北京間を走った急行列車。井泉水は錦県まで乗車した。「大陸」の展望寝台車には、「あじあ」とは趣の異なる大型の曲面ガラスがつけられていた。往時の写真を見ると、車内も外観に相応しい豪華なものだったが、井泉水の印象は侘しげだ。車内の書棚は、これといった本のない形だけのものだったのか。

井泉水は旅を中心とした『東西南北』という随筆集も1942(昭和17)年に上梓している。タイトルの東と南は北米とハワイ、西と北は朝鮮と満洲を表したもので、そのなかの章「朝の三時間」に、牡丹江からハルピンへ向かう浜綏線の寝台車の様子を記している。

九時、寝台にはいつたが、二等寝台の上段しか無いと云はれた、〈略〉梯子が一本。私は上にあがつて服を着かへた。こちらの汽車は、上段でも天井が高いので、立つてズボンをぬぐことが出来る。棚が広いので、手廻りの物は何でも整理がつくのがいい。だが、日本の寝台車のやうに革の手かけが無いので、転げ落ちやしないかと少々心配だ。

全てがゆったりとした寝台車はプルマンの流れを汲むものだろう。しかし、井泉水は、顔の上を飛び回る蠅の音や、下段にいる子どもの泣き声に悩まされ、明け方に起きると、窓外の景色を眺めていた。

また、天理教徒の開拓村を訪ねる章の「天理村行」では、ハルピンに近い三棵樹から天理村まで走っていた軽便の天理村鉄道が描写されている。

駅(三棵樹)の構外の、雑草がぼや/\してゐる中に路といへば路がある。そこを行くと、広い道があつて、満人が鶏を手づかみにしてメリケン袋に押し込んでゐる。T君はその満人に道を訊ねたらしく、近径と見えるレールの中をずん/\と先へ行く。〈略〉と、東三果樹駅と書いた小さな電車の駅があるのだつた。

当時の時刻表を見ても東三果樹(東三棵樹)という駅はない。始発駅の名は本線と同じ三棵樹。おそらく井泉水の記憶違いだろう。このほかにも間違った地名などが散見される。

小さな電車が一台、それに連結した無蓋車が四台、単線のレールの上に置いてある。人間は電車に貨物は無蓋車にかと思ふに、さうでもない。満人たちが寄つてきては無蓋車に乗るのだ。

井泉水は“電車”と記しているが、天理村鉄道は軌間762ミリの非電化で、ガソリン動力だった。駅に停まっていたのは気動車か客車だろう。この鉄道に在籍した車両は、はっきりしたことが分かっていない。
文中には「昭和十三年に始めて出来た」とあるが、正確にいうと、三棵樹-天理村間の開業は1937(昭和12)年12月だった。
井泉水は10人も腰かければ満席の“電車”が窮屈で、立派な“関羽髯”を生やした労働者風の男や耳輪をした女の子など、現地の人たちと一緒に青天井の無蓋貨車に乗る。彼らは皆、藍色の民族衣装で、それが秋の空色によく映えていた。

空は雲の一片さへもない青さだ。蜻蛉がたくさん飛んでゐる。これが皆な番い蜻蛉である。私の傍にゐた一升瓶を持つた男は、その酒の口を開いて、労働者風の男と、仲好く甚だ愉しげに、飲みまはしてゐるのだ。
大和店といふ停留場に来て、車はドツカンと停つた。畑の中に家が三四軒見えた。一人の満人が下車した。チンと手洟をかんで、其指を駅名標になすりつけて、サツサと行くと、車は又動き出した。

井泉水の一行は西天理村駅(文中では東天理とある)で降ろされ、不通になっているその先の2キロを歩くことになる。途中、小さな川の鉄橋に出るが、トロッコに乗せてもらい、無事、天理教の開拓村に到着した。
天理村鉄道の描写は牧歌的で平和だが、天理村の紹介では開村当初、武装化した現地住民、いわゆる匪賊の襲撃から村を守るため、周囲に500ボルトの電流を流した鉄条網を巡らせ、機関銃も配備していたとある。
当時の開拓民には知らされていなかったが、そこはもともと人が暮らしていた土地を関東軍が強引に収奪した名ばかりの開拓村だったのである。