大場白水郎の『早春』

満洲の鉄道を詠んだ俳人たち[4]

大場白水郎(1890-1962)は、府立三中時代に同級生だった久保田万太郎の勧めで俳句を始め、後に永井荷風とも交友があった俳人の籾山梓月に師事した。
「うなぎ屋の二階にゐるや秋の暮」は、そんな白水郎(はくすいろう)の好もしい一句。夕刻のうなぎ屋の座敷で、酒を“ちびり”とやっている光景が浮かぶ。田端に近い駒込に住んでいた時代の句、「夕桜田端の汽車のきこえける」もいい。機関区のあった田端からは、汽笛など、汽車の音が聞こえてきたようだ。

白水郎は宮田自転車の重役だった。奉天に満洲宮田製作所が設立されると、1939(昭和14)年、その専務取締役に就任。同じ年に「あじあ」を題材とした句を詠んでいる。

急行「あじあ」静かに着きぬ秋の暮
雪の中急行「あじあ」すれちがふ

この句は、1940(昭和15)年に上梓した句集『早春』より。「雪の中……」の句は「新京へ」と題して、句集の最終ページに掲載している。
一日に上下各1本の「あじあ」は、当時、奉天-四平間を走行中にすれ違った。雪の降るなかを流線形のパシナが出会う光景は、さぞ迫力があったことだろう。

白水郎は家族を日本に残して単身赴任。満鉄が経営する奉天ヤマトホテルに暮らした。「放射路の一筋窓に向ひ凍つ」は、同じ『早春』のなかの一句。奉天のヤマトホテルは放射状の道が延びる大広場に面して建っていた。

満洲では在満邦人による俳句が盛んで、各地で句会が開かれ、俳誌も刊行されていた。白水郎は新聞や俳誌の選者を務めるなど、精力的な活動を続け、『大陸俳句の作法』という在満邦人のための俳句入門書も執筆している。
その巻末では満洲の季語を紹介。例えば「春」には「パスハ」や「杏の花」。「パスハ」はハルピンの名物だったロシア正教会の復活祭、「杏の花」は満洲の人々にとって日本の桜のような存在だった。変わったところでは「苦力来る」。春になると、中国から苦力が群となって満洲へ出稼ぎに来たらしい。
『大陸俳句の作法』が満洲の出版社から刊行されたのは終戦のひと月前、ソ連軍の侵攻が始まるわずか半月前の1945(昭和20)年7月25日だった。満洲は本土と違い、終戦直前まで平和だったという。

白水郎は終戦後、一時、中国国民党軍によって投獄されたが、終戦翌年の8月に奉天を発つ。「あじあ」から一転、帰路は無蓋貨車に乗せられて錦県の捕虜収容所へ着くと、そこで半月待たされた後、ようやく引き揚げ船に乗るが、今度はGHQの厳しい検疫のため、博多沖でさらに20日間も停泊させられた。
白水郎は獄舎や捕虜収容所、引き揚げ船のなかでも俳句を詠み続けた。獄舎では身の危険を感じて、壁に「ゆく春や銃殺も亦いさぎよし」と書き残したという。まさに筋金入りの俳人だった。