日別アーカイブ: 2017年10月1日

箱根車上ハイキング

戦前からあった乗物尽くしの箱根めぐり

 「箱根ゴールデンコース」というのがある。1960(昭和35)年に大涌谷のロープウェイが全通したことで完成した小田急グループの観光コースで、小田急、登山鉄道、ケーブルカー、ロープウェイ、遊覧船、バスと、乗物尽くしで箱根を巡る。“ゴールデン”というネーミングが、いかにも完成当時の昭和30年代を思わせる。
 私も小学生だった1970(昭和45)年頃に、家族旅行で、このコースを巡った。相鉄沿線の家から新宿へ、わざわざ遠回りして、憧れのNSEロマンスカー「はこね」に乗車したが、そのせいで芦ノ湖に着く頃には夕方になってしまった。下は、そのときに買ったゴールデンコースの乗物を写した絵はがき。ケースには「ゴールデンコース」でなく「ロマンスルート」とある。

 乗物尽くしの箱根めぐりは、ロープウェイの開業より、はるか以前の昭和初期からあったようだ。俳人の河東碧梧桐(1873-1937)が、1936(昭和11)年1月号の「旅」(日本旅行倶楽部)に寄稿した家族旅行の随筆「新宿より熱海へ」を読むと、ロープウェイがバスに代わっているほかは、現在と同じようなコースを辿っている。

 新宿からの小田急電車、電車といふと市内電車の短距離を標準にするせゐか、二時間近くもかゝる拘束が、如何にも退屈な感じだ。そこらを見計らつてゞあらう、菓子ビールなどの籠を持ちあるく、車内行商嬢のゐるのは勿怪の幸ひ、ビールと蜜柑とノシイカで、どうやら二三分がまぎらせる。

 小田急の新宿-小田原間は1927(昭和2)年の開業。「二三分」は「二三十分」の誤りか。車内販売があったというから、おそらく碧梧桐が乗った小田急は、1935(昭和10)年6月より毎週土曜日に運転を始めた途中駅ノンストップの「週末温泉列車」だろう。戦後に登場したロマンスカーのルーツともいえるこの列車には売店が設けられていた。

 小田原駅内で、容易に乗り替へらるゝ箱根登山電車は、ホンの二三月前の開業だといふが、とても明るく清らかで乗り心地は百パーセント。草津温泉軽井沢間の高原電車などゝは比較にならない、正に昭和年代の新味十分な設備、それに気の利いた車掌さんが、車体の説明から、会社パンフレツトの提供、至れり尽せりである。

 軽便の草軽電鉄と乗り心地を比較したら「百パーセント」といいたくなるだろう。余談になるが、この言葉は昭和初期の流行語のようで、大宅壮一がモダンガールを論じた「百パーセント・モガ」を書いたのもこの頃だった。
 箱根湯本-強羅間を1919(大正8)年に開業させた箱根登山鉄道は、小田急の「週末温泉列車」運転と同年の10月に小田原まで延伸した。文中に「二三月前の開業」とあるから、碧梧桐が家族と箱根を訪れたのは1935(昭和10)年の末か。電車の便がよくなったのを機に旅行を思い立ったのだろう。
 登山鉄道の後は、1921(大正10)年に開業していたケーブルカーで早雲山へ。そこからバスに乗り、やはり開通したばかりの自動車専用道路を通って芦ノ湖へでた。船で箱根町に到着した後は再びバスに乗り、十国峠を経由して熱海に向う。
 なお、当時の自動車専用道路は後に伊豆箱根鉄道となる箱根遊船によるもの、芦ノ湖も同社の航路のみだった。戦後の昭和2、30年代には、こうした路線をめぐり、西武系の伊豆箱根鉄道と小田急系の箱根登山鉄道が激しく対立、観光客の争奪戦が繰り広げられた(専用道は現在、神奈川県が買収して県道となっている)。

箱根登山鉄道の小田原-箱根湯本間が開業して間もない頃の路線図。
昭和10年代に配布された会社のパンフレットより。碧梧桐が車内で貰ったのも、これと同じものかもしれない。中面を見ると、「週末温泉列車」は小田急だけでなく、省線の新宿と品川からも出るとある。ちなみに、このパンフレットは、神保町の、今はなきアベノスタンプコインで入手。