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朝鮮を走った幻の登山鉄道

野上豊一郎の『草衣集』にみる金剛山電気鉄道


 作家・野上弥生子の夫で能楽の研究者、法政大学の総長も務めた野上豊一郎(1883-1950)が1938(昭和13)年に上梓した『草衣集』(相模書房)という本がある。主に当時の朝鮮旅行を記した随筆集なのだが、そのなかの一章「金剛山膝栗毛」に、今はなき金剛山電気鉄道が描写されている。
 金剛山電気鉄道は、朝鮮の名勝として知られた金剛山の入口に至る、3段式のスイッチバックを設けた登山鉄道で、1931(昭和6)年に鉄原-内金剛間の 116.6キロが全通。しかし、戦時中の1944(昭和19)年に一部区間が休止、戦後は北朝鮮によって、しばらく運行されたようだが廃止となっている。登山鉄道ながら車輌は阪急のP6に似た郊外電車風で、軌間は1435ミリの標準軌だった。

 豊一郎の「金剛山膝栗毛」に同行したのは、一高、東大の同級生だった岩波書店の創業者・岩波茂雄と、その娘さんと思われる女性。訪れたのは1935(昭和10)年の10月か。3人は京城より京元本線で北上する。

 翌日午前八時二十分、城津行の汽車で京城を立つた。清凉里を過ぎて、北関山の下を通ると、岩山の松の間にもう紅葉の美しく染まつてゐるのが見えた。議政府といふ閑村には林檎が赤赤となつてゐた。
 十一時、鉄原で金剛山電鉄に乗り換へる。ここから金剛山の入口の内金剛駅まで一一六・六キロ。電車で四時間かかる。

 車内にはリュックを背負ったドイツ人夫妻と、酒を呑みながら関西弁で騒いでいる男女数人。騒がしい関西人たちとは、その後も道連れとなり迷惑する。

 電車は徳亭あたりから川に沿つて溯つてゐたが、五両といふ停車場を過ぎると急に勾配がついて、忽ち大きな渓谷が眼下に展開しだした。途中スウィッチ・バックして断髪嶺にかかり、入つて抜けるのに三分ほどかかるトンネルを出ると、遥か下の方に大きな広広とした川が見え、川の両岸だけに少しばかりの平地があつて、あとはどこを見ても山又山である。その一番先の方に薄く霞んで高く聳えてゐるのが金剛山の一部だといふことであつた。
〈中略〉
 電車は断髪嶺を越すと、今一回スウィッチ・バックして、非常な速度で川のほとりまで下つて行つた。そこに末輝里の村があつた。白い川原が平たくつづいて、屋根のそり返つた古い人家が割合に数多く群がつて居り、停車場には自動車も見えた。道ばたには午後の日ざしの中に白い野菊の花が電車の走る風に揺れてゐた。
 三時二十九分、内金剛駅着。内金剛駅はもと長安寺駅と呼ばれてゐた。停車場は朝鮮風の赤い建物で、門のやうな形である。

 3人はバスで内金剛ホテルへ向かう。金剛山を巡った後の帰路は、日本海に沿った東海北部線の外金剛から、乗り換えなしの京城行き寝台列車に乗っている。

 金剛山には野上豊一郎より早い1927(昭和2)年5月に若山牧水が訪れて「朝鮮紀行」を記しているが、このときは金剛山電気鉄道が途中の炭甘までしか開業していなかったため、描写ももの足りない。
 また、画家の川島理一郎が1936(昭和11)年刊行の『旅人の眼』(龍星閣)に記した金剛山の紀行には、五両―断髪嶺間のトンネルが未完成であったため、工事中の、漸く人が通れるだけの岩を掘った道を歩かされたとある。
 名勝として名高い金剛山の紀行は数多いが、金剛山電気鉄道に関しては、営業期間が短かったうえ、登山の入口に至るまでの路線だったことから省略されるなど、その様子を記したものは少なく、野上豊一郎の「金剛山膝栗毛」は貴重な記録といえるだろう。

(なお、『草衣集』には草軽電鉄を題材とした「北軽井沢挿話」も収められているが、これについては別の機会に紹介する。)

横浜の原鉄道模型博物館に展示されている原信太郎氏制作の金剛山電気鉄道22号。氏は青年時代に、この鉄道を訪れている。