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市中電車終点めぐり

もしも荷風が書いていたら……

 
永井荷風(1879-1959)の日記「断腸亭日乗」の1937(昭和12)年3月27日に興味深い記述がある。

 三月廿七日。晴れて好き日なれど北風猶さむし。午後散歩。電車の行くにまかせて行く程に北千住放水路の橋袂に至れり。堤上には両側に露店並び、橋詰の商店より蓄音機の流行唄盛に聞ゆ〈中略〉場末の町の光景亦一種の情味あり。市中電車終点各処の写生文をつくりて見むと、あたりを徘徊す。空はくもりて風ますますさむく五時とおぼしき工場の汽笛聞えたれば、東武停車場より車に乗る。銀座に夕餉を喫して家にかへれば夜は忽初更なり。

 荷風は東京市電(後の都電)の終点各所を巡る紀行文を書こうとしていたらしい。残念ながら、そうした作品は見当たらず、構想だけで終わってしまったようだが、もし執筆されていたら、どこの停留所が選ばれていたのか。当時(昭和10年代前半)の市電の路線図や地図を参考に、それと思しき場末の終点を挙げてみた。

・千住四丁目
 引用した「日乗」の終点。荒川放水路(現在の荒川)に架かる千住新橋の橋詰で旧千住宿の近く。周辺には千住宿の名残の遊廓や、1926(大正15)年に竣工した千住火力発電所の通称“お化け煙突”(場所によって煙突の本数が変わって見えた)もあった。

・下板橋
 旧板橋宿付近にあった終点。中山道沿いには古くからの遊廓が残っていた。1936(昭和11)年の4月9日、荒川の戸田橋へ向かった荷風は、途中、市電ではないが乗合自動車の窓から街並みを眺め、「日乗」に「板橋宿の旧道とおぼしく女郎屋の建物とびとびに四五軒残りたり。」と記している。
 板橋区立郷土資料館には、ここの妓楼のなかで一番大きかった1885(明治18)年築の「新藤楼」の玄関部分が保存されている。
 板橋一帯は軍需工場が多く建てられたところで、戦争末期の1944(昭和19)年には工員を輸送するための、下板橋から志村に至る路線が開業した。

・ゑびす長者丸
 天現寺橋から延びていた盲腸線の終点。東京電気鉄道時代、川崎まで延長する計画だったというが実現せず、1944年、前述した路線等へ資材を転用するために廃止となった。
 宮松金次郎・鐵道趣味社写真集『東京市電・都電』(2015・ネコ・パブリッシング)には、鬱蒼としたなか、床屋の前で“ぷっつり”と線路の途切れた、なんとも不思議なゑびす長者丸の風景が掲載されている。

・月島八丁目
 勝鬨橋が1940(昭和15)年に竣工するまで、月島と築地の間は渡し船で行き来していた。橋が出来てからも電車の連絡は戦後までなく、築地方面へ線路が繋がったのは1944(昭和22)年だった。

・芝浦二丁目
 車輌工場への引込み線にあった終点。戦争末期の1944年に旅客営業をやめている。
 工場から少し離れたところには賑やかな花街もあった。1936(昭和11)年築の花街の見番だった建物が現存する。

 荷風が荒川放水路の下流付近に杖を曵き、「元八まん」や「放水路」といった随筆を書いた頃、下流に架かる葛西橋の橋詰には、まだ停留所はなかった。境川から葛西橋に至る区間が開業したのは1944年。それは板橋と同様、周辺の軍需工場に工員を運ぶ目的で生まれた路線だった。

・今井
 1931(昭和6)年12月7日と翌年6月29日の「日乗」には、城東電軌に乗って江戸川の畔にある終点の今井まででかけたことが記されている。城東電軌は1942(昭和17)年に東京市電に統合された私鉄。荷風はきっと、この路線の終点風景も紀行文に取り上げただろう。

 十二月七日、曇りて南風烈しく暖気四五月の如し、午後中洲病院に往き日用の薬を求む、帰途電車にて錦糸堀より小松川に出で、荒川放水路に架けられし長橋を渡り再び電車にて今井町の終点に至る、江戸川に架けられたる橋あり、橋下浦安に通ふ自働乗合船の桟橋あり、日は既に暮れたれば直に錦糸堀に立戻り、銀座に出で銀座食堂に夕餉を食す、

 六月念九。くもりて風涼し。〈中略〉久しく郊外を歩まざれば電車にて小松川に至り、放水路を横ぎり、再び電車にて江戸川今井の堤に至り、今井橋のほとりを歩む。浦安行徳あたりに通ふ乗合自働車過行く毎に砂塵濛濛たり。されど河岸には松榎の大木あり。蒹葭の間より柳の茂りたる処あり。葭雀鳴きしきりて眼に入るもの皆青し。水辺の掛茶屋に葵の花夏菊などさき揃ひたり。電車道に沿ひたる水田は大方蓮の浮葉に蔽はれ、畠には玉蜀黍既に高くのびたり。稲田には早苗青々として風になびき、夏木立茂りたる処々には釣堀の旗ひらめきたり。

 「日乗」の記述から、城東電軌が荒川放水路で分断されていた様子が分かる。現在と違って当時の今井には、長閑な水郷の風景が広がっていたようだ。

 あのころ(戦前)は往来にしたって、電車の終点あたりにしたって、見るものも、空気もよかった。

 晩年、荷風は相磯凌霜との対談集『荷風思出草』(1955・毎日新聞社)のなかで、こんなことを述べていた。