尾崎士郎の「ガソリン・カー」

昭和初期の東京近郊私鉄めぐり

 「人生劇場」で有名な作家・尾崎士郎(1898-1964)が執筆した「ガソリン・カー」という紀行文がある。以前にも紹介した雑誌「旅」の1939(昭和14)年4月号に掲載されたもので、尾崎士郎らが東京近郊の非電化ローカル私鉄に乗って物見遊山に出かける。そこには昭和初期の流山鉄道(現・流鉄)や神中鉄道(現・相鉄)などが描写されている。

 ガソリンカーといふものは、何か春めいた乗物である。おそろしく尻の軽い、飄々たる感じが面白い。ガソリンカーなどのあるところは、大抵近年までは、旧式な頭大(あたまで)ツかちの機関車に曵つぱられた軽便鉄道といふやうなものであつたに違ひないから、先づそれらを脱皮した明るい車体などが何よりも軽快な感じを与へるのであらう。
 常磐線の馬橋から流山へ行く線がそれである。あの辺は一帯に土地が低く明るく、際限なくひろがるげんげ田で、何やら夢のやうに霞むまつたくの春の野である。その中へふらふらと迷ひ込んで行くやうなガソリンカーはたしかに現実ばなれのした羽化登仙的なものである。

 冒頭で尾崎士郎はガソリンカーを「春めいた乗物」と表現している。これは4月号の掲載で“お題”が「陽春随筆」だったことから、無理にこじつけたようにもとれるが、ガソリンカーが「尻の軽い、飄々たる」というのは分かる感じがする。それまでの蒸気機関車と違う、気動車の軽快さをうまく言い表している。
 続いて紹介される流山鉄道のガソリンカーは「羽化登仙的」と表現。現代では使われなくなった言葉だが、羽化登仙とは羽の生えた仙人となって天に登ること。桃源郷のような風景の中を走る様子が神仙めいた雰囲気だったのだろうか。そんな沿線も今日では、すっかり住宅地に変わってしまった。
 当時のキハ31が付随車化された姿で流山市総合運動公園に保存されているが、「ガソリン・カー」が書かれた頃の流山鉄道は、これともう1輌の気動車2輌のみで旅客輸送を行っていたので、この車輌に尾崎士郎が乗ったのかもしれない。
 尾崎士郎ら一行は流山駅に着くと、駅の案内板で見つけた、講談や歌舞伎で知られる義賊、金子市之丞と三千歳の墓を詣でる。この墓は今も閻魔堂という寺の境内にある。
 流山は「たゞ一軒のカフエーが白けてゐるばかり」のひっそりとした町だった。一行は「古着屋」という妙な屋号の酒屋で酒を瓶に詰めてもらうと、江戸川の堤にでて酒宴を開いた。

流山市総合運動公園に保存される
流山鉄道キハ31尾崎士郎らが酒宴を催した江戸川の堤

 立川から五日市へ行くのもガソリンカーである。これにも春のリズムがあつた。網代といふ秋川の崖の上にある鉱泉宿へ行つたことがある。この辺はおそらく軽便鉄道の時代であつたなら、遥けくも見つるかなの感がある山陬(さんすう)であつたらうが、今ではガソリンカーの軽快さが、ぐつと都会に近いものにしてしまつたやうだ。

 五日市鉄道(現・JR五日市線)のガソリンカーには「春のリズム」があったという。「山陬」とはまた難しい言葉だが片田舎のこと。なお、この鉄道が、いわゆる軽便鉄道(ナローゲージ)だったことはない。

 ガソリンカーの中でたゞ一つ、風変りなのは神中鉄道といふ線であらう。此の奇体な線は横浜から厚木へ通ふものである。こゝは、添田さつき等がやつてゐる「三味会」といふ東京近郊を歩く会があつて、それに引つぱり出されてはじめて知つたのだが、大体此の三味会は凡そヘンな風景や味覚ばかりを探つてゐる“げて旅”の会であつて、これに誘はれなかつたなら、私の如き、到底かゝる鉄道に乗り合はせることはなかつたであらう。
 星川、西谷、二俣川などいふ処を通つて、東相模の丘陵を走る此のガソリンカーは、まるで酔ひどれのやうに体をゆすぶつて、烈しい叫び声を立てるのである。それだけに面白いといへば面白いがかうして厚木まで、遥々(はるばる)揺すられて行くのは並大抵のことではなからう。
 しかし此のあたりの落ちつき古びた風色は素晴しいもので、景勝として一向に顧みられないところに、ありふれた、ありのまゝの山河がかへつて生き生きと、新鮮な感じで迫つて来るのは面白いことである。

 五日市鉄道を前置きとして、相鉄の前身、神中鉄道が紹介される。文中にでてくる添田さつきとは、大正時代に流行した俗謡「東京節」(「パイノパイノパイ」)を作詞した演歌師兼作家で、尾崎士郎は、彼らの「三味会」という“げて旅”の会に参加していなかったら、神中鉄道のような「風変り」で「奇体」な鉄道など、乗ることなどなかったろうといっている。戦後、沿線の宅地開発で急成長を遂げ、今や大手私鉄の一員となった相鉄も、神中鉄道と呼ばれていた時代には草深いローカル線だった。
 それにしても「酔ひどれのやうに体をゆすぶつて、烈しい叫び声を立てる」ガソリンカーとは、いったいどんな車輌だったのか。随筆が掲載されたのは1939(昭和14)年の4月。湯口徹氏の『内燃動車発達史』上巻(2004・ネコ・パブリッシング)によれば、1936(昭和11)年以降、神中鉄道には既にキハ30形、40形といったボギーのディーゼルカーが導入されていた(ちなみに随筆が掲載された翌月には、流線型の斬新なスタイルをした東横電鉄キハ1形が譲渡されている)。ここに登場する車輌は、例えばキハ10など、それ以前の2軸車に違いない。キハ10は付随車となった後、三岐鉄道、別府鉄道を経て、現在は播磨町郷土資料館に保存されている。
 車窓の風景を眺めているうちに、その辺りを歩いてみたくなった「三味会」の一行は、途中の二俣川駅で下車すると、村役場の近くに見つけた雑貨屋の縁台で、また宴会を始める。といっても田舎の雑貨屋に肴になるようなものがあるはずもなく、紅生姜をつまみながら、1本しかないビールと水っぽい地酒を呑むことになる。
 二俣川駅の周辺も、最近は再開発で随分と変わってしまったが、駅から少し離れた旧街道には、わずかながら往時の面影が残っている。かつて村役場があった辺りの川沿いには、昔ながらのたばこ屋が1軒。尾崎士郎らが立ち寄った雑貨屋を思わせる。
 一行は再び神中鉄道に乗り、さらに大和方面へ向かった。

 神中線は此のあたりまで、丘の起伏に従つて或は切通しの芒のトンネルに入り或は桑畑とすれ/\に走つたが、次第に広々とひらけて来るのは相模河原に近づく為であらう。大和といふところへ来ると小田急の線と交叉するが、こゝから望んだ富士箱根、大山丹沢の山塊が空を切る鮮かさは強い印象となつた。

別府鉄道ハフ5として現役だった頃の
旧・神中鉄道キハ10(1984年1月)

尾崎士郎らが訪れた二俣川の旧街道に残る
昔ながらのたばこ屋

 尾崎士郎は1937(昭和12)年に始まった日中戦争の従軍記者として2度、戦地に赴いた。この随筆の最後には、そんな中国での体験も綴られているが、荒廃した中を軽快に走るガソリンカーは「白昼夢」を思わせ、「凡そ戦争とはかけはなれた旅行気分」だったと、暢気に傍観している。
 ちなみに「ガソリン・カー」が掲載された頃は、既に戦争の影響で石油消費の規制が行われていたものの、まだそれほど深刻ではなかった。