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浅間高原

俳人青邨の知られざる名随筆


 高浜虚子に師事した俳人で、随筆家としても知られた山口青邨(1892-1988)。『花のある随筆』(1934・龍星閣)所収の「浅間高原」(1931)は、青邨が小瀬温泉から草津温泉へ向かった一人旅を綴ったもので、今はなき軽便鉄道、草軽電鉄でのできごとなどを、ユーモアをちりばめて描写している。

 昭和の初め、まだ電気がなく、宿ではランプを灯していたという小瀬温泉。そんな鄙びた温泉に泊った翌日、青邨は宿の子どもにトランクを持たせて草軽電鉄の長日向駅に向かう。草津行きの下り列車に合わせて宿をでてきたのだが……。

駅に来て見ると誰も居ない、家の中を覗いて見ると駅員が一人、靴を穿いたまゝ上り端に仰のけになつて寝てゐる、グーグーと鼾さへ聞える、僕は成るべく知らんふりをして、何とかして自然に起してやらうと靴の音をさせたり、話をしたりした、それでも知らないで眠つてゐる、宿の子供がそこの入口の敷居にトランクをゴツンと置いた、と同時に駅員は眼をさました。そこで
 「電車は来るでせうね」と聞くと
 「えゝ、今度は三時何分です、えゝ、と、今度のはこゝへはとまりませんから」
 そんなことを言ひながら、起きて帽子を被つた、金ピカの筋の帽子を被ると、その人は駅長さんだつた、尤も駅長さんと言つても、外に誰もゐるぢやなし、何でも一人でする駅長さんである、まだ若い人だ、

 手元にある昭和10年代の時刻表を見ると、長日向など途中駅に止まらない列車が何本かあったようだ。
 駅長はさっきも同じような客が来て、隣の小瀬温泉駅まで歩いてもらったと話す。しかし、時間は既に小瀬温泉を出た下り列車がこちらへやって来る頃であった。

 「飛び乗りは出来ないでせうね」
 「いや、さういふことは出来ません」
 「困つたなア、どうも」
 そのうちに駅長は僕のことがだん/\気の毒になつて来たやうであつた。
 「こゝで、上りと下りがすれ違ひになるのです、若し下りが先に来れば、上りを待つてゐなければなりませんから、もしかすれば乗れるかも知れません」
〈中略〉
 チン/\、チン/\と電鈴が鳴つて来る、……又暫らくするとチン/\、チン/\と電鈴が鳴つて来る、
 「大丈夫、乗れます、もう下りが向ふの駅を出ましたから、上りより早く来ます、大丈夫です」
 駅長は向ふへ行つて、下りのシグナルを下した、すると、下の方から、落葉松の林の中から、軋る音がして、電車が現はれて来た、と、今度は、上の方から、ガーツと音がして、もう一つの電車が現はれて来た、駅長は今度は上の方へ走つて行つてシグナルを下した、

 青邨が急いで来た列車に乗ると、それを見ていた駅長が手を横ざまに大きく何遍も振った。慌てて方角を間違え、上り列車に乗ってしまったのだった。

その時はもう、だん/\スピードを上げようとしてゐる時であつた、〈中略〉僕は思ひ切つて飛び下りた、トランクを持つてゐる重さと、電車の反動とでよろ/\とよろめいた、だが、一生懸命に踏みとゞまつて、転ぶのを持ちこたへた、そして、そのまゝの姿勢で、まだ動かずにゐる電車に向つて駆け出した。
 之に出られてはたまらない、僕は駅長にも眼を呉れず、ばた/\と急いで乗つたのである、さうしてから駅長に向つて挨拶をした、
〈中略〉電車はがた/\と音して、草津に向つて発車した、僕は、バスター・キートンの冒険を思ひ出した、この山間の小駅で、この小さな冒険を伴ふ喜劇を演じたのだ、トランクをぶら下げて、昇降台を飛び降りる時の悲愴な気持、いや全く活動写真のアドヴェンチュアだ。

 青邨は列車の中で、長野から来たという婦人にリンゴを貰い、車窓を眺めながら彼女の話を聞く。貸切になっている隣の客車からは蓄音機らしい朗らかな音楽が聞こえてきた。

 窓外には女郎花や桔梗や吾亦紅がすでに咲いて居た、それにまじつて、花菖蒲が咲いてゐた、又甘草の花が咲いて居た、そして所々に白樺がさゞめいて居た、それは高原特有の眺望であつた。
 「八月の十二日は長野ではお盆の花市が立ちましてね、善光寺様の門前は桔梗や女郎花などの秋草で埋まるんでございますのよ、それがみんなこの辺から取つて行くのです、軽井沢から貨車に積んで参るんですの」
〈中略〉
 電車が草津に近づくに従つて秋草の色はだん/\に濃くなつて行つた。

 「浅間高原」を収めた『花のある随筆』には、ほかにも軽便鉄道やトロッコがでてくる作品がある。
 「檜原湖」(1927)では裏磐梯の檜原湖まで行くのに、川桁から樋の口まで沼尻鉄道に乗車したことが綴られている。

この電車は沼尻といふ硫黄山まで行つて居るので、掘りだした硫黄を運ぶ為めのものだ。だから客車の外に貨車をつないでゐる。それに乗つて桑畑の中を通たり、田のへりを過ぎたりして行く。
 磐梯山は少しの雲もなく、眼前に峨々と聳えてゐる。大きな山だ。〈中略〉田には人や馬が働いてゐる。田掻をしてゐる処もある。田植をしてゐる処もある。畔には何といふ花か知らないが、黄色い菊の様な花が茎を高く抽いて咲いてゐる。萱草の赤い花もある。田掻馬にくつついて小馬が泥田の中をぼちや/\追つかけてゐる。

 汽車のはずが“電車”と記しているのが残念だが、磐梯山や馬が田掻きをしている風景など、初夏の沼尻鉄道の車窓が描写されている。
 また、鉱山の視察を題材とした(青邨の本業は地質学)創作風の「旅先でのこと」(1930)では、山間の小さな駅と鉱山を繋ぐ軌道のトロッコに乗るシーンが幾度かでてくる。

 鉱山長とO君はその靄の中にうつすり見えて居る吊橋のところからトロに乗つて鉱山の役宅まで帰つて行くのである。トロがコロ/\コロ/\と静かな澄んだ音を立てゝ暫く聞えて居た。

 最後に青邨の俳句を一句。

シグナルに咲きそふ山のをみなへし

 秋草の女郎花と信号のある風景が、「浅間高原」に描かれた草軽電鉄の小駅を思わせる。

北軽のことなど

「高原の軽便鉄道と文学者たち」訂正補遺

3年前、草軽電鉄のでてくる文学作品を紹介した「高原の軽便鉄道と文学者たち――草軽電鉄」(東京書籍刊『読鉄全書』所収)を執筆した。近年、ウェブ向けの原稿ばかり書いていた自分にとって、久しぶりの紙に印刷される著作となった。ウェブの仕事をしていながらこんなことを書くのもなんだが、やはり文章はディスプレイより紙の方が読みやすい。それでもウェブは掲載した後も簡単に文字を修正できるのがいい。このサイトでも、しれっとあちこち直していたりする。
 「高原の軽便……」に今のところ大きな間違いは見つかっていないが、二、三のちょっと気になった箇所について、ここに記しておく。

〈229頁20行目〉
業平橋駅→旧・浅草駅
〈230頁4行目〉
業平橋駅→駅

 明治末、幼年期の堀辰雄が親しんだ東武鉄道の始発駅(現・とうきょうスカイツリー駅)について書いたが、その頃の駅は一時廃駅になったり、吾妻橋駅と称していたのが浅草駅に変わったりとややこしい。このあたりのことは今尾恵介氏の『地図と鉄道文書で読む私鉄の歩み』関東2(2015・白水社)に詳しい。

〈241頁17行目〉
「草分けの頃・戦中・戦後」によると、
 
随筆の「巣箱」(一九七〇年)や「草分けの頃・戦中・戦後」によると、

 草軽電鉄が、沿線の北軽井沢に法政大学村をつくった関係者の一人、野上弥生子にパスを贈ったこと、そのパスが更新されても年齢が変わらなかったことは、弥生子の随筆「巣箱」に書かれている。

会社は私たちの村づくりを歓迎してパスをくれた。ところが夏ごとに新しく取りかえられても、中身は最初に渡されたものと一向に変らない。私のパスについていえば、姓名と並んで書かれた年齢の四十四歳が、毎年四十四歳にとどまった。このことは「不死」までにはいかずとも、「不老」だけは証明されたものだとしてよろこんで笑いあったが、パスは数年後にうち切られた。ちっぽけな高原電車の経営者は、ギリシア神話のゼウスの大神ではなかったわけだ。

 「高原の軽便……」では、弥生子が99歳で天寿を全うするまで旺盛な活動を続けられたのはこのパスのおかげだったのではと、面白おかしく紹介したが、ここにある通り、パスは数年で打ち切られたようである。

 ところで、法政大学村の開村後、最寄り駅の地蔵川が北軽井沢に改称されたのは、駅舎の新築に併せてと書いた。大学村の年誌にもそうあるが、実際には1929(昭和4)年から翌年の駅舎新築以前、大学村ができた1928(昭和3)年に改称されたらしい。
 宮田憲誠氏の『遠い日の鉄道風景』(2001・径草社)には、昭和3年6月1日に駅名変更とある。出典が記されていないが、「昭和3年7月改訂」と時刻表に記された草軽電鉄の沿線案内に北軽井沢の駅名が載っていることから、やはりその頃の改称と思われる。なお、昭和3年2月29日には、鉄道大臣宛に「地蔵川ヲ北軽井沢ト駅名改正届」が提出されている。
 ちなみに、軽井沢駅から20キロも離れたこの場所を北軽井沢と命名したのは誰だったのか。同じ大学村に別荘をもっていた岸田國士の長女、岸田衿子の随筆「カブトムシ」(1999)には、野上弥生子の提案らしいとあるが、弥生子の随筆風な小説「草分」(1944)では、「北軽井沢。――たしかに北には違ひないが、南軽井沢が本家の避暑町からほんの一筋の汽車路しか隔たつてゐないのに引きかへ、これは五里も北方にかけ離れてゐる。もし文字に距離が表はせるものなら、北――軽井沢、とダッシュを二三寸も長く引くべきであつた。」と、この名称に否定的だ。
 『大学村五十年誌』(1980・北軽井沢大学村組合)に掲載された安藤良雄の「松室致とその想い出」によると、「その名付親は大学村の造成の実務の中心となったH氏であるといわれている。」、また、同じ年誌の弥生子による「草分けの頃・戦中・戦後」には「高原の夏の村作りに頭領格で働いたのは、浜田政治郎なる人物でした。」とある。
 浜田政治郎とは法政大学の嘱託だった建築業者で、名付け親のH氏とは、おそらく彼のことなのだろう。

 もともと別の本に掲載する予定だった「高原の軽便……」は、若山牧水から南木佳士まで、草軽電鉄の登場する小説、戯曲、随筆、詩を網羅したものだったが、『読鉄全書』に収められることになり、文章量を3分の1程度に減らして、堀辰雄、野上弥生子と、その周辺の作家のみに絞った。
 山口青邨の知られざる名随筆など、紙数の都合で割愛した作品については、近いうちにこのサイトで紹介したい。