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“五人づれ”が見た石油発動車

「五足の靴」に描かれた満島馬車鉄道と佐賀軌道

歌人・詩人の与謝野寛・北原白秋・平野萬里・木下杢太郎・吉井勇が “五人づれ”の署名で執筆した「五足の靴」という紀行文がある。
1907(明治40)年の夏、北原白秋が生まれた柳川をはじめ、九州の北西部を“五人づれ”が巡った旅日記なのだが、このなかの「領巾振山(ひれふるやま)」に、満島馬車鉄道の石油発動車が詳しく描写されている。

唐津近松寺(きんしょうじ)を出でて鉄道馬車に乗る、正面を見て来た来たといふと中途で馬を外した、何事ならむと思へば遥か向ふの方から煙を吐いて来るものがある。今機関車が来るのださうだ。紫の烟をぱつぱつと断続的に吐きながらがたぴしやとやツて来たのを見るとぺらぺらの鉄の函だ、極くプリミチーヴな玩具(おもちや)の様な石油機関車である。機関車が止まると五六人で客車を押して結び付ける。ぼーと一時に濛々たる烟を上げて車が動き出す、その前にぶるぶると馬の様に震へたには一同舌を巻いて驚いた、客車に向へる薄い板の壁に穴が明いてる。化物の口である。三人の火夫が面白がつて石油をたく、その香(にほひ)が遠慮なく客車を見舞ふ。美しい虹の松原を珍しい汚い黒い動物が息ざし荒く腹の中に人間を数(す)十人容(い)れて走つてゆくのである。二軒茶屋で降りる。列車も暫時(ざんじ)休憩する、手桶の水を逆(さかしま)にして熱く焼けた釜の上へぶちまけるとじゆうつと音がして白煙が立ち登る、烟突の中へまで打つた、そのプリミチーヴなこと驚くべきものがある、〈略〉

佐賀県唐津の満島馬車鉄道(後の唐津軌道)は1900(明治33)年に開業、1930(昭和5)年に廃止された。軌間は1067ミリだったが車輌は軽便と変わらず、名勝の虹の松原に沿ってのんびりと走る軌道だった。
福岡鉄工所製の石油発動車が導入されたのは、湯口徹氏の『石油発動機関車』(2009・ネコ・パブリッシング)によると1907(明治40)年。“五人づれ”が訪れたのと同じ年だ。
「五足の靴」は、当時最新式だった石油発動車の印象を記した貴重な記録となっているが、ポンポン船と同じ焼玉機関を載せたその機関車は、当時から見ても珍奇なものだったのだろう。「プリミチーヴな玩具」「汚い黒い動物」と酷評されている。
石油発動車といえば、牧野俊介氏が1940(昭和15)年に廃止直前の南筑軌道で遭遇し、そのゲテっぷりに驚嘆した文章を『自転車に抜かれたコッペルたち』(1980・プレス・アイゼンバーン)などに綴っているが、機関車が造られた当初も昭和10年代と変わらない印象だったのが分かる。

ところで、「五足の靴」の「雨の日」と題した章には、佐賀軌道の馬車もでてくる。

〈略〉暫くして筑後川に達した。雨は愈(いよいよ)降る。
濁れる河を渡ると佐賀迄鉄道馬車がある。乗る。よく見ると品川と新橋との間を通つてよく脱線したそれの御古(おふる)であつた、紋章がその儘残つて居る。I生が学校の行き返りに乗つた馬車である。

思ひきや、筑紫のはてに
品川の馬車を見むとは。

旧知に会ふ感がした。馬も同じ馬かも知れぬ。ひどく鈍(のろ)い。〈略〉

I生とは吉井勇のこと。1904(明治37)年に開業、1937(昭和12)年に廃止された佐賀軌道は、ここに書かれた通り“御古”を使っていたようで、「さがの歴史・文化お宝帳」というサイトにも「品川馬車鉄道会社の使用していた軌条、車輌、馬具など一切を購入」とある。
ちなみに品川馬車鉄道は1897(明治30)年に開業。東京馬車鉄道に吸収合併された後、1903(明治36)年に電化されて東京電車鉄道となった。馬車鉄道時代の軌間は特殊な737ミリで、佐賀軌道でもそれを踏襲したものと思われる。

なお、「五足の靴」は岩波書店より文庫化。同出版社の『白秋全集』第19巻(1985)にも所収されている。

祖父と華中鉄道

昭和15年の鎮江金山寺参詣

鎮江金山寺の古びた御朱印を持っている。表には「空海上人修行古刹」、つづら折りの中面にはさまざまな仏や寺宝の名称などが書かれ、日付は昭和15年、民国29年10月とある。
この御朱印は祖父の形見で、仕事仲間とでかけた折の記念らしい。私の祖父母は戦時中、上海に暮らしていた。
祖父が勤めていたのは華中鉄道の工場。華中鉄道とは、日本が日中戦争で占領した中国の華中地域の鉄道を運営した会社で、鉄道省と関係が深く、多くの職員が日本から派遣されたという。
祖父も元は鉄道省で、叔母の話では御料車の製造にも携わった“偉い人”だったそうだ。
中国行きは本人の意思だったのか。残念ながら祖父に直接、華中鉄道時代の話を聞いたことはない。私は幼少から鉄道好きだったが、祖父が生きていた10代末まで、台湾以外の中国の鉄道には無関心だった。
ただ、祖父が持っていた印刷物の華中鉄道のマークと「かてつ」という文字はおぼろげながら覚えている。おそらくOBの団体「華鉄会」の冊子を目にしたのだろう。今も残っていたらいいのだが。
祖母は私に上海の思い出話をした。雄大な夕日のこと、葬式のときに雇われる“泣き女”のこと、社宅には中国人の女中がいたらしく、姑娘(クーニャン)という言葉もよく口にした。
祖父から聞いたという華中鉄道の話もした。日本人の職員は、それまで鉄道を運営していた白人と違い、技術を惜しげもなく中国人に教えるので、彼らに感謝されていたというのだ。
この話は東亜教育協会という団体が制作していた「興亜教育」1942(昭和17)年5月号の、華中鉄道職員による「常州工場見聞記」で確認することができた。
常州工場は上海から南京に至る華中鉄道海南線のほぼ中間にあった大きな工場で、そこでは養成所を設置して中国人の技術者を育て、車輌の修繕はもちろん、新製も行わせたという。ただし、文中にある「日中合作」「東亜建設」といったスローガンは表向きのようで、実際には日本人の技術者不足から行ったことらしい。
祖父はこの工場に勤務していたのか。上海近郊にも呉淞工場があり、上海に住んでいたという話から、2か所で働いたのかもしれない。

華中鉄道は南満洲鉄道と違って、設立からわずか6年と数か月で敗戦を迎えたためか鉄道専門誌でも殆ど取り上げられたことがない。「鉄道ピクトリアル」1980(昭和55)年1月号にある正木智海氏の「華中鉄道-私の思い出」他3篇と、「鉄道ファン」1984(昭和59)年8-12月号に連載された田邊幸夫氏による「続 大陸の鉄輪」のなかの5篇くらいだろう。
満鉄を取り上げた田邊幸夫氏の連載「大陸の鉄輪」(「鉄道ファン」)は加筆され、プレス・アイゼンバーンから出版されたが、満鉄以外の戦前・戦中の中国の鉄道を扱った「続 大陸の鉄輪」は単行本になっていない。
華中鉄道の東京支社が1943(昭和18)年に発行した『華中鉄道と中支那』には、上海からシンガポールに至る上海昭南島鉄道の計画が載っている。もしそれが実現して「あじあ」みたいな看板列車が登場していたら、その後、華中鉄道に関する本が数多く出版されていたに違いない。

華中鉄道は沿線案内などの単行本やグラフ誌も出版していた。そのなかの一冊、1942(昭和17)年発行の『江南の旅』は、祖父が訪れた鎮江と金山寺を下記のように紹介している。

鎮江〔チン・キヤン〕
鎮江はもと南京の咽喉部をなすが故に京口といはれ、北は長江を隔てゝ揚州に通じ、軍事、経済、交通共に長江に於ける有数の要衝地であり西暦一八六一年の天津条約以後、開港されてからは発展の一路を辿り現在に至つてゐる。
江蘇省の大都邑であるこの市街は東西約三粁、南北約一粁半に亙り、人口二十万、在留邦人は事変前十名足らずであつたが、現在は三千名を超へ各方面の事業に活躍してゐる。
今事変南京攻略戦に於て、敵は防禦を堅くし頑強に抵抗したのであつたが、昭和十二年十二月初旬丹陽から破竹の勢ひを以て進撃した皇軍神速部隊の前には抗すべくもなく、遂に十二月八日鎮江城頭高く日章旗が翻つたのであつた。

金山寺〔チン・シヤン・スウ〕
この寺は金山と呼ぶ山の上にある。往時は揚子江の中央にあつたのであるが、その後地形の変化によつて現在の如く陸地と接続したものである。創建は元の明帝の時代或は元帝の時代と言はれてゐるが詳らかでない。
山頂に聳へる塔は八角七層で、塔の後方の亭には『江天一覧』といふ乾隆帝(※)の筆になる勅額があり、こゝから見下ろす景観は江も天も一望の中にあり、揚子江の巨きさも江南平野の広さもここに立つて始めて判る様な気がする。遥かに揚州等も望むことも出来れば又江中の孤島焦山の眺めも中国では得難い風景である。
この寺は古来から多くの名僧智識が参釈し、日本から弘法大師が渡来して修業したと伝へられる洞窟が残つてゐる。現在寺僧二百名が居り昔ながらの修行を積んでゐる。
※「江天一覧」は乾隆帝ではなく康煕帝の作品。

題辞に「この書を新しき東亜建設の聖戦に散つた忠勇なる英霊に捧ぐ」と記された『江南の旅』は、観光ガイドでありながら、ところどころに戦争の話がでてくる。

金山寺は空海や雪舟が訪れたことから、日本人に人気の観光名所だったようだ。『江南の旅』にも「中支那の名勝旧蹟中日本人の間に最も親しまれ識られてゐるのは、蘇州の寒山寺と鎮江の金山寺」とある。
ちなみに寒山寺は寒山拾得ゆかりの寺で、『蘇州夜曲』にも「鐘が鳴ります寒山寺」と歌われている。
この曲のレコードが発売されたのは1940(昭和15)年の8月。祖父が鎮江を訪ねたのは同年の10月だから、街中のラジオや蓄音機で耳にしたかもしれない。
海南線沿線の鎮江へ、祖父はどんな列車に乗ってでかけたのだろう。その頃の時刻表を見ると、少ない本数のなか、上海8時0分発(常州11時1分発)、鎮江12時14分着の南京行き急行がある。やはり南京行きの特急「天馬」もあるが、上海10時30分発(常州13時24分発)、鎮江14時32分着で、到着が少し遅くなってしまう。
列車の機関車は、日本から送られて同線の旅客列車で活躍したという広軌化されたC51か。華中鉄道も機関車を新造したが、登場したのはこの旅行の翌年、1941(昭和16)年からだった。

〈追記〉
華中鉄道には抗日ゲリラの輸送妨害があったことも記しておかなければならない。寺島洋一氏の「華中鉄道輸送課長の昭和二〇年 -父の日記4-」(「いちもん」45号・2001年2月)によると、祖父がでかけた10月の5日と翌11月の29日には、海南線の外跨塘-蘇州間で地雷による事故が起きている。特に11月29日は被害が大きく、列車転覆で70余名の即死者と、同じく70余名の重傷者をだしたという。旅行も命がけだったのだ。

市中電車終点めぐり

もしも荷風が書いていたら……

永井荷風(1879-1959)の日記「断腸亭日乗」の1937(昭和12)年3月27日に興味深い記述がある。

三月廿七日。晴れて好き日なれど北風猶さむし。午後散歩。電車の行くにまかせて行く程に北千住放水路の橋袂に至れり。堤上には両側に露店並び、橋詰の商店より蓄音機の流行唄盛に聞ゆ〈略〉場末の町の光景亦一種の情味あり。市中電車終点各処の写生文をつくりて見むと、あたりを徘徊す。空はくもりて風ますますさむく五時とおぼしき工場の汽笛聞えたれば、東武停車場より車に乗る。銀座に夕餉を喫して家にかへれば夜は忽初更なり。

荷風は東京市電(後の都電)の終点各所を巡る紀行文を書こうとしていたらしい。残念ながら、そうした作品は見当たらず、構想だけで終わってしまったようだが、もし執筆されていたら、どこの停留所が選ばれていたのか。当時(昭和10年代前半)の市電の路線図や地図を参考に、それと思しき場末の終点を挙げてみた。

・千住四丁目
引用した「日乗」の終点。荒川放水路(現在の荒川)に架かる千住新橋の橋詰で旧千住宿の近く。周辺には千住宿の名残の遊廓や、1926(大正15)年に竣工した千住火力発電所の通称“お化け煙突”(場所によって煙突の本数が変わって見えた)もあった。

・下板橋
旧板橋宿付近にあった終点。中山道沿いには古くからの遊廓が残っていた。1936(昭和11)年の4月9日、荒川の戸田橋へ向かった荷風は、途中、市電ではないが乗合自動車の窓から街並みを眺め、「日乗」に「板橋宿の旧道とおぼしく女郎屋の建物とびとびに四五軒残りたり。」と記している。
板橋区立郷土資料館には、ここの妓楼のなかで一番大きかった1885(明治18)年築の「新藤楼」の玄関部分が保存されている。
板橋一帯は軍需工場が多く建てられたところで、戦争末期の1944(昭和19)年には工員を輸送するための、下板橋から志村に至る路線が開業した。

・ゑびす長者丸
天現寺橋から延びていた盲腸線の終点。当初は、この先の山手線を潜り、大森まで延長する計画だったというが実現せず、1944年、前述した路線等へ資材を転用するために廃止となった。
宮松金次郎・鐵道趣味社写真集『東京市電・都電』(2015・ネコ・パブリッシング)には、鬱蒼としたなか、床屋の前で“ぷっつり”と線路の途切れた、なんとも不思議なゑびす長者丸の風景が掲載されている。

・月島八丁目
勝鬨橋が1940(昭和15)年に竣工するまで、月島と築地の間は渡し船で行き来していた。橋が出来てからも電車の連絡は戦後までなく、築地方面へ線路が繋がったのは1944(昭和22)年だった。

・芝浦二丁目
車輌工場への引込み線にあった終点。戦争末期の1944年に旅客営業をやめている。
工場から少し離れたところには賑やかな花街もあった。1936(昭和11)年築の花街の見番だった建物が現存する。

荷風が荒川放水路の下流付近に杖を曵き、「元八まん」や「放水路」といった随筆を書いた頃、下流に架かる葛西橋の橋詰には、まだ停留所はなかった。境川から葛西橋に至る区間が開業したのは1944年。それは板橋と同様、周辺の軍需工場に工員を運ぶ目的で生まれた路線だった。

・今井
1931(昭和6)年12月7日と翌年6月29日の「日乗」には、城東電軌に乗って江戸川の畔にある終点の今井まででかけたことが記されている。城東電軌は1942(昭和17)年に東京市電に統合された私鉄。荷風はきっと、この路線の終点風景も紀行文に取り上げただろう。

十二月七日、曇りて南風烈しく暖気四五月の如し、午後中洲病院に往き日用の薬を求む、帰途電車にて錦糸堀より小松川に出で、荒川放水路に架けられし長橋を渡り再び電車にて今井町の終点に至る、江戸川に架けられたる橋あり、橋下浦安に通ふ自働乗合船の桟橋あり、日は既に暮れたれば直に錦糸堀に立戻り、銀座に出で銀座食堂に夕餉を食す、

六月念九。くもりて風涼し。〈略〉久しく郊外を歩まざれば電車にて小松川に至り、放水路を横ぎり、再び電車にて江戸川今井の堤に至り、今井橋のほとりを歩む。浦安行徳あたりに通ふ乗合自働車過行く毎に砂塵濛濛たり。されど河岸には松榎の大木あり。蒹葭の間より柳の茂りたる処あり。葭雀鳴きしきりて眼に入るもの皆青し。水辺の掛茶屋に葵の花夏菊などさき揃ひたり。電車道に沿ひたる水田は大方蓮の浮葉に蔽はれ、畠には玉蜀黍既に高くのびたり。稲田には早苗青々として風になびき、夏木立茂りたる処々には釣堀の旗ひらめきたり。

「日乗」の記述から、城東電軌が荒川放水路で分断されていた様子が分かる。現在と違って当時の今井には、長閑な水郷の風景が広がっていたようだ。

あのころ(戦前)は往来にしたって、電車の終点あたりにしたって、見るものも、空気もよかった。

晩年、荷風は相磯凌霜との対談集『荷風思出草』(1955・毎日新聞社)のなかで、こんなことを述べていた。

朝鮮を走った幻の登山鉄道

野上豊一郎の『草衣集』にみる金剛山電気鉄道

作家・野上弥生子の夫で能楽の研究者、法政大学の総長も務めた野上豊一郎(1883-1950)が1938(昭和13)年に上梓した『草衣集』(相模書房)という本がある。主に当時の朝鮮旅行を記した随筆集なのだが、そのなかの一章「金剛山膝栗毛」に、今はなき金剛山電気鉄道が描写されている。
金剛山電気鉄道は、朝鮮の名勝として知られた金剛山の入口に至る、3段式のスイッチバックを設けた登山鉄道で、1931(昭和6)年に鉄原-内金剛間の 116.6キロが全通。しかし、戦時中の1944(昭和19)年に一部区間が休止、戦後は北朝鮮によって、しばらく運行されたようだが廃止となっている。
登山鉄道ながら車輛は阪急のP6に似た郊外電車風で、軌間は1435ミリの標準軌だった。

豊一郎の「金剛山膝栗毛」に同行したのは、一高、東大の同級生だった岩波書店の創業者・岩波茂雄と、その娘さんと思われる女性。訪れたのは1935(昭和10)年の10月か。3人は京城より京元本線で北上する。

翌日午前八時二十分、城津行の汽車で京城を立つた。清凉里を過ぎて、北関山の下を通ると、岩山の松の間にもう紅葉の美しく染まつてゐるのが見えた。議政府といふ閑村には林檎が赤赤となつてゐた。
十一時、鉄原で金剛山電鉄に乗り換へる。ここから金剛山の入口の内金剛駅まで一一六・六キロ。電車で四時間かかる。

車内にはリュックを背負ったドイツ人夫妻と、酒を呑みながら関西弁で騒いでいる男女数人。騒がしい関西人たちとは、その後も道連れとなり迷惑する。

電車は徳亭あたりから川に沿つて溯つてゐたが、五両といふ停車場を過ぎると急に勾配がついて、忽ち大きな渓谷が眼下に展開しだした。途中スウィッチ・バックして断髪嶺にかかり、入つて抜けるのに三分ほどかかるトンネルを出ると、遥か下の方に大きな広広とした川が見え、川の両岸だけに少しばかりの平地があつて、あとはどこを見ても山又山である。その一番先の方に薄く霞んで高く聳えてゐるのが金剛山の一部だといふことであつた。
〈略〉
電車は断髪嶺を越すと、今一回スウィッチ・バックして、非常な速度で川のほとりまで下つて行つた。そこに末輝里の村があつた。白い川原が平たくつづいて、屋根のそり返つた古い人家が割合に数多く群がつて居り、停車場には自動車も見えた。道ばたには午後の日ざしの中に白い野菊の花が電車の走る風に揺れてゐた。
三時二十九分、内金剛駅着。内金剛駅はもと長安寺駅と呼ばれてゐた。停車場は朝鮮風の赤い建物で、門のやうな形である。

3人はバスで内金剛ホテルへ向かう。金剛山を巡った後の帰路は、日本海に沿った東海北部線の外金剛から、乗り換えなしの京城行き寝台列車に乗っている。

金剛山には野上豊一郎より早い1927(昭和2)年5月に若山牧水が訪れて「朝鮮紀行」を記しているが、このときは金剛山電気鉄道が途中の炭甘までしか開業していなかったため、描写ももの足りない。
また、画家の川島理一郎が1936(昭和11)年刊行の『旅人の眼』(龍星閣)に記した金剛山の紀行には、五両―断髪嶺間のトンネルが未完成であったため、工事中の、漸く人が通れるだけの岩を掘った道を歩かされたとある。
名勝として名高い金剛山の紀行は数多いが、金剛山電気鉄道に関しては、営業期間が短かったうえ、登山の入口に至るまでの路線だったことから省略されるなど、その様子を記したものは少なく、野上豊一郎の「金剛山膝栗毛」は貴重な記録といえるだろう。

(なお、『草衣集』には草軽電鉄を題材とした「北軽井沢挿話」も収められているが、これについては別の機会に紹介する。)

横浜の原鉄道模型博物館に展示されている原信太郎氏制作の金剛山電気鉄道22号。氏は青年時代に、この鉄道を訪れている。