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箱根車上ハイキング

戦前からあった乗物尽くしの箱根めぐり

「箱根ゴールデンコース」というのがある。1960(昭和35)年に大涌谷のロープウェイが全通したことで完成した小田急グループの観光コースで、小田急、登山鉄道、ケーブルカー、ロープウェイ、遊覧船、バスと、乗物尽くしで箱根を巡る。“ゴールデン”というネーミングが、いかにも完成当時の昭和30年代を思わせる。

私も小学生だった1970(昭和45)年頃に、家族旅行で、このコースを巡った。相鉄沿線の家から新宿へ、わざわざ遠回りして、憧れのNSEロマンスカー「はこね」に乗車したが、そのせいで芦ノ湖に着く頃には夕方になってしまった。右は、そのときに買ったゴールデンコースの乗物を写した絵はがき。ケースには「ゴールデンコース」でなく「ロマンスルート」とある。

乗物尽くしの箱根めぐりは、ロープウェイの開業より、はるか以前の昭和初期からあったようだ。
俳人の河東碧梧桐(1873-1937)が、1936(昭和11)年1月号の「旅」(日本旅行倶楽部)に寄稿した家族旅行の随筆「新宿より熱海へ」を読むと、ロープウェイがバスに代わっているほかは、現在と同じようなコースを辿っている。

新宿からの小田急電車、電車といふと市内電車の短距離を標準にするせゐか、二時間近くもかゝる拘束が、如何にも退屈な感じだ。そこらを見計らつてゞあらう、菓子ビールなどの籠を持ちあるく、車内行商嬢のゐるのは勿怪の幸ひ、ビールと蜜柑とノシイカで、どうやら二三分がまぎらせる。

小田急の新宿-小田原間は1927(昭和2)年の開業。「二三分」は「二三十分」の誤りか。車内販売があったというから、おそらく碧梧桐が乗った小田急は、1935(昭和10)年6月より毎週土曜日に運転を始めた途中駅ノンストップの「週末温泉列車」だろう。戦後に登場したロマンスカーのルーツともいえるこの列車には売店が設けられていた。

小田原駅内で、容易に乗り替へらるゝ箱根登山電車は、ホンの二三月前の開業だといふが、とても明るく清らかで乗り心地は百パーセント。草津温泉軽井沢間の高原電車などゝは比較にならない、正に昭和年代の新味十分な設備、それに気の利いた車掌さんが、車体の説明から、会社パンフレツトの提供、至れり尽せりである。

軽便の草軽電鉄と乗り心地を比較したら「百パーセント」といいたくなるだろう。余談になるが、この言葉は昭和初期の流行語のようで、大宅壮一がモダンガールを論じた「百パーセント・モガ」を書いたのもこの頃だった。
箱根湯本-強羅間を1919(大正8)年に開業させた箱根登山鉄道は、小田急の「週末温泉列車」運転と同年の10月に小田原まで延伸した。
文中に「二三月前の開業」とあるから、碧梧桐が家族と箱根を訪れたのは1935(昭和10)年の末か。電車の便がよくなったのを機に旅行を思い立ったのだろう。

登山鉄道の後は、1921(大正10)年に開業していたケーブルカーで早雲山へ。そこからバスに乗り、やはり開通したばかりの専用道路を通って芦ノ湖へでた。船で箱根町に到着した後は再びバスに乗り、十国峠を経由して熱海に向う。
碧梧桐は、この箱根めぐりを「車上ハイキング」と称している。


箱根登山鉄道が湯本から小田原まで延伸して間もない頃の路線図。
昭和10年代に配布された会社のパンフレットより。碧梧桐が車内で貰ったのも、これと同じものだったかもしれない。中面を見ると、「週末温泉列車」は小田急だけでなく、省線の新宿と品川からも出るとある。ちなみに、このパンフレットは、神保町の、今はなきアベノスタンプコインで入手。

岩佐東一郎と秋保電鉄と

みちのく温泉電車紀行[1]

以前、古書市で見つけた岩佐東一郎の『ちんちん電車』。タイトルや満員電車が描かれた表紙カバーが気になって入手したのだが、1955(昭和30)年発行のこの本は、あまとりあ社刊、タイトルの上に「風流読物集」とある。路面電車の思い出を綴った獅子文六の同名の著書とは別物で、「あまとりあ」らしい艶話が載っている。『ちんちん……』とは、そっちの意味だったのだ。
岩佐東一郎(1905-1974)は堀口大学に師事した詩人でありながら、NHKラジオのバラエティ番組「とんち教室」に出演したり、軟派系の雑誌にもよく執筆したようだ。
『ちんちん電車』は2部構成で、前半は遊廓や待合などでの艶笑譚だが、後半はそうした話以外の小説や紀行文。そのなかに「ふらいぱん寺」と題した東北紀行があり、1961(昭和36)年まで長町-秋保温泉間を走っていた秋保電鉄や、秋保温泉への連絡バスがユーモラスに紹介されている。

著者がまだ大学生だった時代というから昭和の初め頃のことだろう。休暇を利用して一人、松島見物にやって来たのだが、列車内で旅行案内を見て、近くの長町駅から秋保温泉へ行く私鉄電車がでていることを知り、急遽、下車することにした。しかし、長町駅前の街道に、それらしい電車の乗り場は見当たらない。

すると、運よく、郵便配達夫が横丁から出て来たので、早速に私は、
――あのう、電車は何処にあるのですか?
と、まるで、子供が玩具の電車でも探しているように訊く。
――ここからデシ。
実に簡単明瞭なものである。その「ここからデシ」と云うのは、石材倉庫なのだ。私は別に石材を調査に来たわけではないから、
――あのネ、電車なんでシが?
そろそろ、こつちの言葉も怪しくなる。
――そうデシ。ここからデシ。
――どうも、ありがとう。
さつぱり判らなくなつたが、郵便屋はそれきり黙つて立つたまま、私が行動するのを、見守つているから、ままよ、とその石材倉庫の中に歩み入つた。
入つて、おどろいたことに、その石材倉庫のうすぐらい中に、電車が一台とまつていたではないか。私も、色んな電車を知つてはいるが、石材倉庫の中の電車とは、生れて始めてである。倉庫が即ち「秋保温泉行電車」の始発駅でもあつた。ははんと感じ入つてる私に、電車の車掌が
――発車しまシから、お早く願いまシ。
と云うので、あわてて乗りこむと、電車は倉庫の中を動いて裏側の田圃の方へ引いてある線路を、ゆるやかに走り出した。

かつての秋保電鉄長町駅の写真を見ると、大きく「秋保石」と書いた看板がでていたりして、たしかに石材倉庫に見えないこともない。
1914(大正3)年に馬車軌道の秋保石材軌道として開業したこの路線は、温泉への湯治客の輸送もあったが、社名の通り、付近で採掘される秋保石の運搬が主な目的だったようだ。
1925(大正14)年に軌間を“サブロク”に改軌して電化。小さな電車が湯治客を、凸電が石材を運ぶようになった。岩佐東一郎が秋保温泉を訪れたのは、電化して間もない頃だった。

温泉に近づくにつれて、山々の紅葉の美しさが、私の旅情を慰さめてくれた。時には、両側の窓に樹々の枝がふれて、車内にまで紅葉を舞いこませるほどである。……
いつか、うとうとと居睡りしていた私の耳に、のんびりひびいて来る、
――あきう、あきう、どなたさまも終点でシ。お忘れものないよう願いまシ。
と云う車掌の声に、眼をさましました。秋の日は、もう、とつぷり暮れて肌寒い風が身にしみる。
五六人の客と共に下車すると、道のわきに古びた旧式なフオードが一台。運転手兼車掌らしい男が
――温泉行バシは、すぐ出まシ。
と呼んでいる。自動車のワキ腹に「一人金五銭」と書いてあるのに、誰も乗ろうとしない。たつた五銭なのに、田舎の奴つてケチなもんだと義憤を感じた私だけが乗つた。
――すぐかね。
――すぐでシ。
私の聞いた意味は、すぐ発車するのかと云う意味だつた。
エンジンをかけた旧式フオードは、身ぶるいして走り出したが、まもなくガタンと止まつた。
故障でも起したのかと思つてると、
――ここでシ、温泉は。走り出してから二分と乗らない内に、着いたのだから、誰もわざわざ旧式フオードに乗らぬわけだ。

温泉の旅館は下宿を思わせる粗末な造りで、女中は山姥みたいな凄い笑い方をした。
翌日は松島見物へ。塩釜に向う汽船に乗るが、そこでイギリス人の婦人と出会い、彼女に同行して拙い英語のガイドをする羽目になる。タイトルの「ふらいぱん寺」は、そのとき、塩釜の御釜神社の訳が思いつかず、苦し紛れに「フライパン・テンプル」と答えたことから。
この随筆の初出は「旅」(日本交通公社)の1950(昭和25)年10月号で、「旅の珍談奇談」という連載の一つとして発表された。

写真を多数掲載したお薦めの一冊。『思い出の秋保電車』宮崎繁幹・編(2004・交通新聞社)

田宮虎彦と花巻電鉄と

みちのく温泉電車紀行[2]

新藤兼人監督による1956(昭和31)年製作の映画「銀(しろがね)心中」は、冬の鉛温泉が舞台で、当時、花巻-西鉛温泉間を走っていた花巻電鉄鉛線の名物、車幅の狭い“馬面電車”が名脇役を演じている。
映画は道ならぬ恋の悲劇。夫の戦死を告げられた佐喜枝(乙羽信子)が青年の珠太郎(長門裕之)と恋仲になるが、戦後、亡くなったはずの夫が戻ってからも珠太郎への想いを断ち切れず、その後を追いかける。しかし、辿り着いた先で珠太郎に拒まれ、絶望した佐喜枝は命を絶ってしまう。
珠太郎が暮らす温泉へ佐喜枝が向うシーンで、雪の中を走る馬面電車や車内風景がでてくるほか、佐喜枝に追われた珠太郎が電車に飛び乗るシーンや、吹雪で止まった電車の前を佐喜枝が歩くシーンにも馬面電車が登場する。
1969(昭和44)年まで営業を続けた花巻電鉄鉛線だが、1960年代初めには車輛の新造などで、旧型の馬面電車は予備車になってしまう。映画の撮影された頃が、最後の佳き時代といえるだろう。

原作は田宮虎彦(1911-1988)による同名の小説。1952(昭和27)年の作品で、田宮は舞台となる鉛温泉の、日本一深い岩風呂で有名な藤三旅館に逗留して、この小説を執筆したという。

鷹巻の温泉から、東北山脈の山ふところに湯量の豊富な温泉が点在している。鷹巻の駅から小さなおもちゃのような電車が通じていて、小沢温泉、檜岐平温泉、西檜岐平温泉、そして終点の、もう嶮しい山々が折り重なるように両側から迫った一番奥にしろがね温泉があるのだった。

花巻は鷹巻といったように地名が仮名になっている。

その切なさに堪えきれなくなって汽車にのった。そして、寒々と空に凍りついているような山肌を、小さな電車の中から一人みた。

珠太郎を追って佐喜枝が温泉に向うくだりである。
しかし、花巻電鉄と思しい電車が登場するのはこれくらいで、映画と較べるともの足りない。
そのかわり、映画化された1956年の「旅」(日本交通公社)11月号に、花巻電鉄の馬面電車を詳しく紹介したエッセイを載せている。「小説「銀心中」の舞台 -作者がみた鉛温泉の旅情」がそれで、これがなかなか趣深い。

花巻電鉄などというと、いかにもいかめしく聞えるけれども、東北本線花巻の駅から鉛温泉まで私たちを乗せていつてくれるあのはゞのせまい小さな電車は、妙に切なく旅情をさそう。坐席に腰かけると、むかいあつて腰をかけた人と膝小僧をつきあわす。どちらかが膝をよぢらせてよけなければ、たがいちがいに膝小僧をくみあわせるようになる。電車の車体のはゞが、それほどせまいのだ。二輌連結して走つてゆくのだが、レールのとぎれめとぎれめにガタンガタンと車体を前後にあふつて、ぎこちなく山間を登つてゆく。この電車のことを、つがいのキリギリスに似ているといつた人があるが、やせたキリギリスとこの電車との組みあわせは、まことにたくみな表現である。詩的であるとさえ思われる。
鉛温泉は、東北本線花巻の駅から、その電車で、花巻温泉とは逆な方向に、小一時間ゆられて行きつく終点にある。
〈略〉
花巻の山うしろの幾つかの温泉は、〈略〉庶民の湯治場である。それは、ちようど、花巻電鉄の、あのはゞのせまい小さな電車のように、華美という言葉とは縁遠い。しかし、なつかしく切ない旅情の思い出を、一度そこに遊んだ人の心に、いつまでも残す。
花巻から、はゞのせまい小さな電車に、しばらくゆられてゆくうちに、秋のこの頃なら、車窓は山の紅葉をうつくしくうつしはじめるだろう。その紅葉にうづまつて、温泉宿がひつそりと息づいている。私も、もう一度、いつてみたいと思う。

誰が名づけたのか“つがいのキリギリス”とは妙な表現だが、なんとなく分かる感じもする。

ちなみに映画の「銀心中」は、川本三郎氏の著作を読んでその存在を知った。氏の『日本映画を歩く』(1998・JTB)では、「銀心中」のほかにも、軽便鉄道、ナローゲージが登場する映画として、「挽歌」(北海道の殖民軌道)、「飢餓海峡」(川内森林鉄道)などを紹介している。

「旅」(日本交通公社)1956(昭和31)年11月号より。

山口誓子の『黄旗』と『満洲征旅』

満洲の鉄道を詠んだ俳人たち[1]

山口誓子(1901-1994)は汽車好きの俳人だった。関西本線の蒸気機関車を詠んだ句、「遠き汽車俯向き下る春の昼」を解説した『自選自解 山口誓子句集』のなかで、誓子(せいし)はこんなことを記している。

私は、汽車が好きだ。〈略〉蒸気機関車がなくなるというので、それを記録して遺そうという書物が、随分たくさん出版されている。私は、それをほとんどみな買って持っている。

『自選自解……』が刊行されたのは1969(昭和44)年、ちょうどSLブームの頃だ。書棚には関沢新一の写真集などが並んでいたのだろうか。この俳人は相当なマニアだったようである。

誓子は昭和初期に興った新興俳句の旗手としても知られている。
同時代に、新興写真、新興芸術派と呼ばれるものがあったが、そうした動きと同じように、誓子の新興俳句も、スケートリンクやビヤホール、ホテル、工場、飛行機など、近代的で都会的な題材を斬新な手法で捉えた。
「ダイヴィング」と題したなかの一句、「ピストルがプールの硬き面(も)にひびき」は、その代表作。競泳のスタートシーンで、ピストルの音がプールの水面に硬く響いた様子を詠んでいる。

1934(昭和9)年、誓子は満洲を訪れた。当時勤めていた住友の社員として、名目は現地の事業調査だったが、満鉄(南満洲鉄道)幹部の、俳人でもあった三溝又三の働きかけで実現したというこの出張は、誓子に満洲で思う存分俳句を作ってもらおうというものだった。
誓子は満洲での成果をまとめた句集『黄旗』を翌年に上梓すると、それまで師事していた花鳥諷詠を唱える高浜虚子の「ホトトギス」を離れて水原秋桜子の「馬酔木」に参加。秋桜子とともに新興俳句運動を牽引していった。
「黄旗は新興満洲帝国の国旗である。〈略〉私はいま黄旗をはためかしながら、爆音高く、俳界の上空を飛翔するのである。」と、『黄旗』の序文は勇ましいが、誓子は自らの新興俳句と、1932(昭和7)年に建国したばかりの新興国・満洲を重ね合わせたのだろう。

『黄旗』には「特別快車亞細亞号」と題した満鉄の特急「あじあ」を詠んだ句が並んでいる。当時流行の流線形を纏った満鉄の看板列車は、汽車好きにとっては勿論、新興俳句の俳人にとっても恰好の題材だった。そのなかの句を拾ってみる。

汽車はやく枯れし野を日をしりへにす
掌(てのひら)に枯野の低き日を愛づる

2句とも「あじあ」の展望車内での作。車窓からは一面の枯野が後ろへ去っていくのが見えた。その枯野の低く傾いた太陽へ、手を差し伸べて掌に載せると、珠のように愛でてみた。
「あじあ」が大連-新京(長春)間の運行を開始したのは1934(昭和9)年の11月。誓子が満洲を訪れた月であった。もしかしたら「あじあ」の運行に合わせて旅程が組まれたのかもしれない。
誓子は後の1944(昭和19)年に、『黄旗』の句と当時の紀行文を併せた『満洲征旅』を満洲の出版社から上梓しているが、そのなかの一章の「奉天」にも、「あじあ」に乗車したときのことを記している。

特別快車「あじあ」は奉天に向つて走つてゐた。展望車は巡洋艦の艫そつくりで、硝子が後尾に一枚、左右に五枚嵌つてゐる。それを通して軌條と枯野がずんずん退いて行く。
間もなく私は後尾の椅子から私の方へ顔を向けた陸軍の将官に気がついてはつとした。写真で見覚えのある土肥原少将だつたからである。

誓子は関東軍の土肥原賢二少将(後に大将)と同じ列車に乗っていた。土肥原は軍刀に手を置いて坐っていたという。

鞍山を通るとそこらは一面の枯野で、左方に見える大きな工場の内部では紅い熔鋼を注いでゐるのが美しく見えた。なほも走りつゞける列車は、首山・遼陽・沙河を経て奉天に近づいて行つた。都会に近いせゐかさすがに「牛奶糖」と大きく書いたキヤラメルの広告などがはやい速力ですれちがつたりした。

奉天(瀋陽)の街中では小さな路面電車を見かけるが、それが昔、京都を走っていたものと聞いて嬉しくなる。誓子は京都市の岡崎で生まれ、幼年期を過ごした。
この後、湯崗子温泉や撫順炭鉱を巡り、再び「あじあ」に乗って新京へ向かったようだ。「特別快車亞細亞号」にある夕日の句は、この2度目の乗車時の光景だろう。訪問時、「あじあ」の下り列車は、新京へ夕方の5時半に到着した(帰路は朝鮮を経由した。新京-釜山間を走っていた急行「ひかり」に乗車したと思われる)。

新京に着いた翌日、誓子はさらに北を目指してハルピンへ行くが、中露合弁の東支鉄道が満州国に譲渡され、その新京-ハルピン間が広軌(1520ミリ)から標準軌(1435ミリ)に改軌されたのは1935(昭和10)年の8月末。訪れたのはその前年で、まだワゴン・リの走る東支鉄道だった。誓子は運行開始間もない「あじあ」とともにワゴン・リにも乗車するという貴重な体験をしたことになる。
『黄旗』にも「ワゴン・リイ」と題した句が並ぶ。そのなかの句を拾ってみる。

碧き眼の露西亞乗務員の眼に枯野
氷る河わたる車室の裡白(しら)む

列車が松花江を渡るとき、急に車内が白くなった。それは凍結した川が反射したものだった。誓子は車内にいながら川の冷たさを感じた。
東支鉄道のワゴン・リといえば、里見弴も『満支一見』のなかで、その豪華なコンパートメントを紹介しているが、『満洲征旅』にも「東支鉄道」という一章がある。車内に加え、新京からハルピンに至る車窓の印象も詳細に記した名随筆なのだが、なぜか『山口誓子全集』には収録されていない。

実に巨大な列車であつた。私はその傍を通つて機関車の直ぐ次の車体の踏段(ふみだん)に足をかけた。内部に入ると右側は車窓で狭い廊下が、扉を閉ざして並んでゐる幾つかの前に通じてゐた。私はその一つに入つた。

そのとき私は、去りゆく新京駅の構内に青いあじあ号の停つてゐるのを見た。私の眼にはいま動き出した列車があじあ号よりも一まはり大きいやうに思はれた。大連に上陸して先づあじあ号に驚いた私は、こゝで再び東支鉄道の車体に眼を瞠(みは)らずにはゐられなかつた。

駅を出外れると夥しい鵲がおどろいて中空に飛散した。しかしそこを過ぎれば、またもとの枯野であつた。既に見て通つた枯野が再び北の方から現はれて眼前を通り過ぎるやうに思はれてならなかつた。機関車からはいつも同じ煙があとからあとから出て来た。

全文を引用できないのが残念だが、その一部だけでも最果てを行く列車の雰囲気が伝わってくる。
半日の間、枯野を走り、やがてロシア正教の寺院が見えるようになると、そこがハルピンの街だった。

『黄旗』には満洲に渡る以前の作品も収められている。そのなかの「大阪駅構内」と題した句の一つ、「夏草に汽罐車の車輪来て止る」も誓子の代表作。夏草の生い茂った構内の外れで目にした光景を映像のように捉えている。
大阪駅が高架に変わる1934(昭和9)年6月の前年の作で、その頃、大阪に住んでいた誓子は、幾度となく大阪駅に通い、入場券を払ってホームの機関車などを眺めていたという。この句は、こうしたマニアックな観察から生まれた。