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豆新幹線は“早かった”

僕の電車漫筆[1]

 押入れの奥から自分の幼少時代のアルバムがでてきた。2歳の誕生日の写真には、デコレーションケーキを前にご満悦の自分らしき幼児。ケーキの傍らには新幹線の玩具も2両並んでいる。東海道新幹線の開業は1964(昭和39)年10月、2歳の誕生日はその前年の2月だから、玩具は新幹線開業よりも前に作られたものだ。


ケーキの傍らには新幹線の玩具
(1両は連結面)

 写真の玩具をよく見ると、1962(昭和37)年4月に完成していた新幹線の試作車ともまた違った形をしている。凹んだ「光前頭」と、それより高い位置にある前照灯が独特で、とぼけた顔に見える。また、塗色もボンネットの上で塗り分けている。よく似た塗り分けの玩具をほかにも見たことがあるので、試作車完成以前のスケッチに、このようなものがあったのかもしれない。
 アルバムには横浜の、今はなき野毛山遊園地で撮られた写真があり、そこには先頭車両が新幹線形だった豆電車が写っている。撮影は1963(昭和38)年6月、この豆新幹線も実物の開業より早い。
 野毛山遊園地の豆電車は、開園当初、隣接する動物園の猿を乗せた「お猿の電車」で、立派なビューゲルをつけたL形の電気機関車が牽引していた。その後、昭和30年代の半ば頃に、新幹線を寸詰まりにしたような車両に替わったが、1964(昭和39)年6月で遊園地が閉鎖されてしまったため、わずか数年の運転、しかも実物の開業より前に廃止となってしまった。
 野毛山遊園地に豆新幹線が登場したのと同じ頃の1962(昭和37)年4月には、上野動物園の「お猿の電車」も、それまでのドッグノーズ形をしたアメリカ風の機関車から新幹線形に替わっている。
 上野動物園のものもズングリとした独特なスタイルで、当時の絵本に描かれたのを見ると真っ赤に塗られていたようだ。


『たのしいどうぶつえん』(1964・小学館)より

 アルバムにはまた、幼稚園の遠足で訪れた、やはり今はなき二子玉川園の写真も収められている。不安げな顔で自分が乗っている新幹線形の豆電車は、野毛山や上野のものとは違い、新幹線の0系をほぼ正確に模した形だ。撮影は1965(昭和40)年4月、東海道新幹線の開業から半年後である。
 豆新幹線は実に“早かった”。

鉄道博物館の片隅で

僕の電車漫筆[2]

 1955(昭和30)年にデビューした相鉄初の高性能車、5000系は、東急の5000系と似たスタイルながら、床下機器を包み込んだボディマウント構造で、塗色も緑がかった青とグレーの塗り分けに赤と白の帯が入るという手の込んだものだった。
 昭和30〜40年代に相鉄沿線で生まれ育った自分にはこの電車が懐かしい。丸みを帯びたその姿は、素っ気ない切妻形の6000系とは好対照だった。
 少年時代、そんな5000系の大きな模型を、どこかで見た記憶がある。親に連れられてでかけた、今はなき交通博物館のようにも思えるが判然としない。ぼんやりと脳裏に浮かぶ5000系の模型がずっと気になっていたが、数年前、鉄道博物館の収蔵庫のような部屋の片隅で、その実物に再会した。


相鉄5000系の20分の1模型

 部屋の棚には、交通博物館時代に作られた20分の1スケールの模型のなかでも私鉄の車両が収められていた。JR東日本の企業博物館に変わり、こうした模型はお蔵入りになっていたのだった。
 相鉄5000系とともに棚に並んでいたのは、小田急3100形NSEロマンスカー、東武1720系DRC、近鉄10100系ビスタカー、近鉄20100系「あおぞら」、東急8500系、京阪2000系、営団丸ノ内線300形、同日比谷線3000系、同千代田線6000系、都電8000形、東京モノレール100形と、錚々たる大手私鉄や都心の電車たち。そんななかに、かつてはローカル私鉄に過ぎなかった相鉄の車両は場違いだが、それだけこの5000系は、デビュー当時、画期的だったのだろう。少年時代に買った小学館の『交通の図鑑』にも、「私鉄の特急電車」と題したページに、小田急3000形SEロマンスカー、近鉄10100系ビスタカー、阪神5001形ジェットカー、南海21000系ズームカーなどと並んで、なぜか相鉄5000系が紹介されていた(印刷の関係か、車体の緑がかった青が緑になっていた)。


『交通の図鑑』(1961改訂版・小学館)より

 その後、鉄道博物館を再訪すると、館内のリニューアルで、小田急のロマンスカーや近鉄の「あおぞら」号など、一部の私鉄車両の模型が展示室に移動していた。だが相鉄5000系は相変わらず、棚の中に置かれたままだった。今となっては知る人ぞ知る存在、車内を見せるカットモデルになっていることもあり、この模型が再び展示される日はないだろう。

「ピカ一」は“Pi-Car”

僕の電車漫筆[3]

 以前、ホームに入って来た新型車両を目にした少年が「“あたらしがた”だ!」と叫んだのを見て、笑ってしまったことがあった。けれども、似たような間違いの思い出は自分にもある。
 多くのなかで際立って優れたものを「ピカイチ」というが、少年時代に読んでいた鉄道雑誌では、この「イチ」を漢数字の「一」で記していた。なかには誤植で「一」が仮名文字の長音符「ー」になっているのもあり、当時は“Pi-Car”と読んで、言葉の前後からなんとなく「エース」みたいなもの、新しい車両をそう呼ぶのかと思っていた。
 友人のA氏も少年時代、鉄道雑誌にあった「ピカ一」を自分と同じように読んでいたとか。近所に、やはりカタカナの「ピカ」に漢数字の「一」と書いた寿司屋(荻窪にあった、作家の井伏鱒二も通った店らしい)があり、母が「ピカイチ」と呼んでいるのを聞いて、自分の読み間違いに気づいたという。ちなみに自分の場合は、大人になるまでずっと間違いに気づかなかった。
 鉄道関係の本では、しばしば、小さな地方私鉄が自社発注した数少ない新型車両、主に電車を「〇〇鉄道、ピカ一の〇〇形」と紹介していた。

大井川鉄道を走る旧・北陸鉄道6010系
(地名駅・2000年6月)

 少年時代、昭和40年代だった当時、「ピカ一」といえば、クロスシートを配した富士急の3100形や福井鉄道の200形。ほかにも山中温泉への行楽客を運んだ北陸鉄道の6000系「くたに」や6010系「しらさぎ」が思い浮かぶ。アルミ製の「しらさぎ」は旧型の台車等を流用して作った車両だった。そうしたものも、地方私鉄が“頑張って作った感”があっていい。
 温泉行きといえば、湯の山温泉へ向かったナローの三重交通モ4400形(現・三岐鉄道200系)も、ロングシートながらカルダン駆動の3車体連接車で、ニブロクらしからぬ「ピカ一」だった。
 その他、ロングシートの車両では、旭川電軌のモハ1000形や長野電鉄のOSカーこと0系などがあった。

東旭川公民館に保存される旭川電軌モハ1001

 「ピカイチ」とはもともと花札からきた言葉で、初めに配られた手札のうち光り物(20点札)が1枚、ほかの札全てが素札のことらしいが、モダンな車両を表すのに花札由来の言葉は似合わない。それよりも“Pi-Car”の方がしっくりくる。