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北軽のことなど

「高原の軽便鉄道と文学者たち」訂正補遺

3年前、草軽電鉄のでてくる文学作品を紹介した「高原の軽便鉄道と文学者たち――草軽電鉄」(東京書籍刊『読鉄全書』所収)を執筆した。近年、ウェブ向けの原稿ばかり書いていた自分にとって、久しぶりの紙に印刷される著作となった。ウェブの仕事をしていながらこんなことを書くのもなんだが、やはり文章はディスプレイより紙の方が読みやすい。それでもウェブは掲載した後も簡単に文字を修正できるのがいい。このサイトでも、しれっとあちこち直していたりする。
 「高原の軽便……」に今のところ大きな間違いは見つかっていないが、二、三のちょっと気になった箇所について、ここに記しておく。

〈229頁20行目〉
業平橋駅→旧・浅草駅
〈230頁4行目〉
業平橋駅→駅

 明治末、幼年期の堀辰雄が親しんだ東武鉄道の始発駅(現・とうきょうスカイツリー駅)について書いたが、その頃の駅は一時廃駅になったり、吾妻橋駅と称していたのが浅草駅に変わったりとややこしい。このあたりのことは今尾恵介氏の『地図と鉄道文書で読む私鉄の歩み』関東2(2015・白水社)に詳しい。

〈241頁17行目〉
「草分けの頃・戦中・戦後」によると、
 
随筆の「巣箱」(一九七〇年)や「草分けの頃・戦中・戦後」によると、

 草軽電鉄が、沿線の北軽井沢に法政大学村をつくった関係者の一人、野上弥生子にパスを贈ったこと、そのパスが更新されても年齢が変わらなかったことは、弥生子の随筆「巣箱」に書かれている。

会社は私たちの村づくりを歓迎してパスをくれた。ところが夏ごとに新しく取りかえられても、中身は最初に渡されたものと一向に変らない。私のパスについていえば、姓名と並んで書かれた年齢の四十四歳が、毎年四十四歳にとどまった。このことは「不死」までにはいかずとも、「不老」だけは証明されたものだとしてよろこんで笑いあったが、パスは数年後にうち切られた。ちっぽけな高原電車の経営者は、ギリシア神話のゼウスの大神ではなかったわけだ。

 「高原の軽便……」では、弥生子が99歳で天寿を全うするまで旺盛な活動を続けられたのはこのパスのおかげだったのではと、面白おかしく紹介したが、ここにある通り、パスは数年で打ち切られたようである。

 ところで、法政大学村の開村後、最寄り駅の地蔵川が北軽井沢に改称されたのは、駅舎の新築に併せてと書いた。大学村の年誌にもそうあるが、実際には1929(昭和4)年から翌年の駅舎新築以前、大学村ができた1928(昭和3)年に改称されたらしい。
 宮田憲誠氏の『遠い日の鉄道風景』(2001・径草社)には、昭和3年6月1日に駅名変更とある。出典が記されていないが、「昭和3年7月改訂」と時刻表に記された草軽電鉄の沿線案内に北軽井沢の駅名が載っていることから、やはりその頃の改称と思われる。なお、昭和3年2月29日には、鉄道大臣宛に「地蔵川ヲ北軽井沢ト駅名改正届」が提出されている。
 ちなみに、軽井沢駅から20キロも離れたこの場所を北軽井沢と命名したのは誰だったのか。同じ大学村に別荘をもっていた岸田國士の長女、岸田衿子の随筆「カブトムシ」(1999)には、野上弥生子の提案らしいとあるが、弥生子の随筆風な小説「草分」(1944)では、「北軽井沢。――たしかに北には違ひないが、南軽井沢が本家の避暑町からほんの一筋の汽車路しか隔たつてゐないのに引きかへ、これは五里も北方にかけ離れてゐる。もし文字に距離が表はせるものなら、北――軽井沢、とダッシュを二三寸も長く引くべきであつた。」と、この名称に否定的だ。
 『大学村五十年誌』(1980・北軽井沢大学村組合)に掲載された安藤良雄の「松室致とその想い出」によると、「その名付親は大学村の造成の実務の中心となったH氏であるといわれている。」、また、同じ年誌の弥生子による「草分けの頃・戦中・戦後」には「高原の夏の村作りに頭領格で働いたのは、浜田政治郎なる人物でした。」とある。
 浜田政治郎とは法政大学の嘱託だった建築業者で、名付け親のH氏とは、おそらく彼のことなのだろう。

 もともと別の本に掲載する予定だった「高原の軽便……」は、若山牧水から南木佳士まで、草軽電鉄の登場する小説、戯曲、随筆、詩を網羅したものだったが、『読鉄全書』に収められることになり、文章量を3分の1程度に減らして、堀辰雄、野上弥生子と、その周辺の作家のみに絞った。
 山口青邨の知られざる名随筆など、紙数の都合で割愛した作品については、近いうちにこのサイトで紹介したい。