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吾妻軌道の馬頭観音

馬車鉄道の馬たちの慰霊碑

 ラフカディオ・ハーンの『日本瞥見記』(1894)のなかに馬頭観音の話がある。ハーンは路傍の祠に見つけたその観音像が家畜の馬を供養するものと知って、日本の農民の優しさに心を打たれた。
 馬の頭の冠を頂いた馬頭観音は、もともと馬が蹴散らすような力で煩悩を取り払うという菩薩だったのだが、日本の民間信仰では馬の守り神となった。「草枯や馬頭庚申六地蔵」(雀庵)と、江戸時代の俳句にも詠まれたように、庚申塔や六地蔵と並んで、かつては路傍などによく見られた石仏だった。
 栗田直次郎・片山寛明の『馬と石造馬頭観音』(2000・神奈川新聞社)によると、馬車鉄道の使役馬を供養した馬頭観音も建てられたという。
 群馬県中之条町の林昌寺に残るそれは、吾妻軌道によるものだ。渋川から中之条まで、吾妻川沿いの街道を走った全長20.8キロの吾妻軌道は、1912(明治45)年に馬車鉄道として開業。1920(大正9)年には花巻電鉄を参考に、馬鉄時代の軌間(762ミリ)のまま電化したが、やがてバスに客を取られ、1934(昭和9)年に廃止となった。ほぼ同じ区間を走るJR吾妻線(旧・国鉄長野原線)が開業したのは軌道の廃止後、終戦の年の1945(昭和20)年だった。

 中之条の林昌寺を訪ねてみると、お目当ての馬頭観音は境内になく、山門の外れの小さな岩山に、いくつかの石仏と一緒に立っていた。「馬頭観世音」と名号を刻んだ文字塔で、上部には可愛らしい馬の絵、名号の傍には「大正六年十一月吉日」「吾妻軌道株式会社本社詰 車掌運転手馬丁一同」とある。現場の人たちによって建てられたというのがいい。
 ちなみに『渋川市誌』第3巻(1991)によると、この馬頭観音建立の4年前、1913(大正2)年には、客車25両、貨車26両に対して馬49頭が飼われていた。

中之条の林昌寺に残る
吾妻軌道の使役馬を供養した馬頭観音

かつて吾妻軌道の中之条駅があった
林昌寺山門前の通り

 林昌寺山門前の通りには吾妻軌道の本社と終点の中之条駅があった。中之条町の市街は、この通りを少し登った先なのだが、馬車鉄道では勾配がきつかったのかもしれない。電化後に延長する計画もあったようだが実現しなかった。
 その街中には旧・吾妻第三小学校を利用した歴史と民俗の博物館「ミュゼ」がある。校舎は1885(明治18)年築の立派な洋風建築。中之条は吾妻地方の中心として、古くから栄えていたのだろう。吾妻軌道が走っていた頃は、四万や沢渡、川原湯などの温泉へ行く乗合馬車の起点でもあった。
 博物館の「ミュゼ」には「吾妻馬車鉄道申請書」や馬鉄時代、電車時代の吾妻軌道の写真が展示されていた。

明治初期の洋風建築を利用した
歴史と民俗の博物館「ミュゼ」

 『馬と石造馬頭観音』では、山梨馬車鉄道が建立した馬頭観音も紹介している。山梨県甲府市の一蓮寺に残るその観音像は、馬頭を頂いたお顔も馬面(面長)だ。こうした馬車鉄道の馬頭観音は、ネットで調べてみると、他にもまだ存在するようである。