大場白水郎と荷風、滝口武士、天川悦子……

満洲の鉄道を詠んだ俳人たち[拾遺]

佐々木桔梗の『流線形物語』で、大場白水郎の詠んだ「あじあ」の俳句を知り、それがきっかけとなって「満洲の鉄道を詠んだ俳人たち」を執筆した。当初は、この白水郎と、その周辺の作家について記すつもりだった。

白水郎が師事した籾山梓月は永井荷風と親しい間柄だったが、白水郎もまた一時期、荷風と交友があった。
荷風の日記『断腸亭日乗』を見ると、昭和10年代のある時期、しばしば夜の銀座で会っていたことが分かる。場所は教文館ビルの地階にあった「富士アイス」で、喫茶を中心に軽食も出していたこの店は、文化人が集うサロンのような雰囲気だったらしい。
『断腸亭日乗』の1937(昭和12)年8月3日には、「……夜初更を過ぎて後銀座不二地下室に至る。……十一時過空庵及小田大場の諸子と共に北里浪花屋に行く。妓てるいろ小槌房丸を招ぐ。……」。また、同年9月4日には「……尾張町不二あいすに飯し其支店の地下室に入るに、空庵大場歌川子等在り。一同自働車にて玉の井に至り狭斜の光景を写真に撮影してかへる。……」とある。
北里とは吉原のこと。ときには「富士アイス」の後で、吉原の引手茶屋や玉ノ井へでかけることもあったらしい。荷風はこのとき写真に凝っていた。撮影した写真には玉ノ井を走っていた京成白鬚線跡と思しいものなど、鉄道関係も数点見られる。
しかし、1938(昭和13)年の5月以降、二人は交友関係を断ってしまったようで、『断腸亭日乗』の1939(昭和14)年7月7日には、「……白水郎の家自転車製造業、時勢の恵を得て暴に富を成すと云ふ。……」と、いかにも荷風らしい皮肉めいた表現で白水郎の近況を記している。この年、白水郎は満洲宮田製作所のある奉天へ赴任となった。

ところで、満洲の各都市には路面電車が走っていたが、それを詠んだものは一句しか見つけることができなかった。

遠くより電車鳴り来る霜夜かな

作者は俳人ではなく詩人の滝口武士(1904-1982)。1924(大正13)年より15年間、大連に暮らし、小学校の教諭を続けながら、同地で安西冬衛と詩誌「亞」を編集した。これもその大連での句で、寒気の厳しい夜の街の一齣、映画のワンシーンを思わせる。大連にはアメリカのバーニーカーを模した路面電車が走っていた。
なお、本篇で取り上げた俳人の作品にも“内地”の路面電車を題材とした佳句がある。

ビール館電車交叉を踏み鳴らす

1938(昭和13)年に刊行された山口誓子の句集『炎昼』より、「盛夏雑章」と題したなかの一句。
交叉点を渡る東京市電の音が聞こえてくる銀座四丁目のビヤホールをイメージしたが、誓子は当時、大阪に住んでいた。となると、これは大阪市電だろう。「ピストルがプールの硬き面にひびき」と同じ時代の作品で、いかにも新興俳句といった感じがする。

ポール廻す冬雨の車掌走るかな
人は廓へ電車が月にポール換へ居る

「ポール廻す……」は、同じく誓子による1922(大正11)年の句、「人は廓へ……」は荻原井泉水の、ほぼ同時代、1919(大正8)年の句である。どちらも路面電車のポールの向きを変える光景を詠んだものだが、井泉水の句は東京の洲崎だろうか。物寂しい廓町の近く、月夜の終点風景である。

最後に「あじあ」を詠んだ俳句をもう一句。

「あじあ」去りし曠野夏雲まで駆ける

本篇で紹介できなかった俳人、天川悦子(1925-)の作品。天川氏は朝鮮やロシアとの国境に近い満洲間島省(吉林省)の龍井で生まれ、その後、新京へ嫁いだ。1959(昭和34)年に刊行された句集『遠きふるさと』には、満州での暮らしを懐かしむ「望郷」と、凄惨な引揚げの体験を詠んだ「三十八度線」を所収。これはその「望郷」のなかの一句。大陸の夏空が目に浮かぶようだ。


◆「満洲の鉄道を詠んだ俳人たち」全章の参考文献
『黄旗』山口誓子(1935・龍星閣)
『満洲征旅』山口誓子(1944・満洲雑誌社)
『山口誓子全集』(1977・明治書院)
『自選自解 山口誓子句集』(1969・白凰社)
『無所住』荻原井泉水(1935・三笠書房)
『東西南北』荻原井泉水(1942・桜井書店)
『新選井泉水句集』(1943・新潮社)
『雪国』山口青邨(1942・龍星閣)
『わが庭の記』山口青邨(1941・龍星閣)
『自選自解 山口青邨句集』(1970・白凰社)
『早春』大場白水郎(1940・春泥社)
『大陸俳句の作法』大場白水郎(1945・奉天大阪屋号書店)
『散木集』大場白水郎(1954・俳句研究社)
『遠きふるさと』天川悦子(1984・自鳴鐘発行所)
『近代俳句集』日本近代文学大系 56巻(1974・角川書店)
『日本の詩歌』19巻(1976・中央公論社)
『俳句のモダン』仁平勝(2002・五柳書院)
「明治・大正・昭和前期 俳人・歌人による〈満洲〉旅吟抄」小沼正俊「朱夏」14号
(2000・せらび書房)
「キメラの国の俳句」西田もとつぐ「俳句文学館紀要」9号(1996・俳人協会)
「モダニズム俳句の系譜」西田もとつぐ「俳句史研究」13号(2005・大阪俳句史研究会)
「満州「天理村」異聞」池田士郎「天理大学人権問題研究室紀要」15号
(2012・天理大学人権問題研究室)
『断腸亭日乗』永井荷風(1980-1981・岩波書店)
『震災復興〈大銀座〉の街並みから』(1995・秦川堂書店)
『宮田製作所七十年史』(1959)
『流線形物語』佐々木桔梗(1974・プレス・ビブリオマーヌ)
『文豪たちの大陸横断鉄道』小島英俊(2008・新潮社)
『大阪駅物語』朝日新聞大阪本社社会部(1980・弘済出版社)
『おもいでの南満洲鉄道』(1970・誠文堂新光社)
『忘れえぬ満鉄』(1988・世界文化社)
『日本鉄道旅行地図帳歴史編成 満洲樺太』(2009・新潮社)
『満洲朝鮮復刻時刻表』(2009・新潮社)
『写真に見る満洲鉄道』髙木宏之(2010・光人社)
『満洲鉄道写真集』髙木宏之(2013・潮書房光人社)

機関車に巣喰う

廃車体を舞台とした龍膽寺雄のメルヘン

龍膽寺雄が書いた「機関車に巣喰う」という奇妙な小説がある。廃車となった客車や電車に人が暮らしたという例はあるが、機関車となると小説の中の世界、それも、この作品が唯一だろう。
龍膽寺雄(1901-1992)は、昭和初期にモダニズム文学の旗手として活躍した作家だ。「機関車に巣喰う」の初出は1930(昭和5)年で、同じ年に17年かけて完成した荒川放水路の、河原に放置された工事用の蒸気機関車を舞台としている。
ryutanji-01「俺らの住まいを打ち開けようか。土手の腹に傾(かし)いで錆びついてる泥汽車の機関車さ。放水路の大堤防へ昔さんざんぱら泥を曳いてきて、今じゃ線路も雑草に埋もれ、漏斗のような旧式な煙突には鳥の糞が白い縞を描き、汽鑵の鼻づらからは蓋扉(ふた)が落っこって、煤けた闇をポカンと円く覗かせ、錆びたピストンの背中を昼間はチョロチョロと蜥蜴がはっている。」
田舎から駆け落ちしてきた10代半ばの二人が、その機関車に住みついているのだが、ねぐらにしているのはキャブの床ではなく、鳥の巣のように枯草を積み、古毛布を敷いた火室の中。焚口が小さく、最近、成長してお尻が膨れてきた彼女のせいで、出入りできなくなるのではと心配している。
主人公の少年は、新聞に紹介されたこともあるほどの発明好きで、川向こうに臨む江東の工場街に小さな工場を持って、自分の考案した“自動蚤取器”や“雨傘を畳み込んだシャッポ”を作るのが夢だ。そんな彼に寄り添う瑁(まい)という名の少女は、放水路を通る「スワン」と名付けた白いモーターボートに憧れている。
小説は、機関車の上へ登った二人が、明け方の躍動する工場街に心を弾ませるシーンで終わる。
「江東の工場街は汽笛の交響楽であけがたを眼ざませる。……煙突、煙突、煙突。白い湯気の塊がそこここから空間へ吹っ切られて、地球はまさに階調ある汽笛の交響楽だ!」
未来派の詩を思わせる描写が、いかにもモダニストの龍膽寺雄らしい。「機関車に巣喰う」は、都会のメルヘンのような作品だ。

二人がいた場所は、貨物列車が走る鉄橋の近く、川向こうに千住火力発電所の四本煙突が望まれると書かれているから、常磐線や東武鉄道が通る小菅だろうか。
藤森静雄の版画に、この辺りの風景を描いた「大東京十二景 九月・荒川放水路の秋色」という作品がある。小説とほぼ同年代の1934(昭和9)年作で、河原の遠景に鉄道のトラス橋や、煙をたなびかせて林立する工場の煙突が描かれている。
機関車に関しては、臼井茂信の『機関車の系譜図』(1973・交友社)の「河原のジプシー」と題した章に、荒川放水路の工事で使われた“泥汽車”が紹介されている。機関車はドイツのボルジッヒ製の20トンCタンクなどで、軌間は1,067ミリだった。
しかし、このサイズの機関車では、小説のような10代半ばの二人が火室に入るのは無理だろう。といって、著者が機関車の罐胴全体を火室と思っていたのかというとそうでもないようで、火室の描写には「蜂の巣形にあいた焔管の穴には、白墨で一つ一つ番号が記されて、箪笥の抽斗のようにいろんなものがその中にしまってある。鉛筆、キャラメル、ナイフ……」とある。ボイラーのこともちゃんと知っていたようだ。
廃車体が本線で使われるような大型の機関車だったら無理がなかったのだが、おそらく龍膽寺雄は写真で(あるいは荒川を渡る列車の窓から?)放水路の“泥汽車”を知り、イメージを膨らませて書いたのだろう。
こうした小説は現実と切り離して愉しむべきなのかもしれないが、登場する二人が、もっと小さな子どもだったら(家出した兄妹にでもして)、小型の“泥汽車”をねぐらにするのも無理なく、また、作品もよりメルヘン調にできただろう。

(資料協力:半田亜津志氏)


龍膽寺雄の本との出会い

私が龍膽寺雄を初めて読んだのは、高校生だった1970年代の半ば頃。その当時、殆ど忘れられていた(今も知る人ぞ知るだが……)この作家の、手に入れることができた数少ない一冊、『風-に関するEpisode』(1976・奢霸都館)だった。
作品の初出は1932(昭和7)年。前述の「機関車に巣喰う」にも似た廃車体ならぬ廃屋の木馬館を舞台とした港町のメルヘンで、この作品をきっかけに、私は文学をはじめ、美術や建築など、さまざまな分野の昭和モダニズムに関心を抱くようになった。
『風-に関するEpisode』は、生田耕作が主宰していた奢霸都館からの刊行で、デ・キリコの絵を表紙に用いた、フランス装の装幀が洒落ていた。
その本は、横浜東口の初代スカイビル(最上階が回転レストランのビル)にあった書肆山田で入手した。詩集を刊行する書肆山田が、その頃は書店も兼業していたのだった。

「機関車に巣喰う」の存在は、それから2、3年して、NHK-FMの「クロスオーバー・イレブン」という番組で知った。語り手の石橋蓮司が、この知られざる小説に触れたのだが、それもそのはず、番組の最後に「スクリプトは佐々木桔梗でした」とナレーションが入った。稀覯本の蒐集家として知られる氏が台本を書いていたのである。
番組で「機関車に巣喰う」のシチュエーションを聞いた私は、佐々木桔梗が著した『E くろがねの馬の物語』(1970・プレス・アイゼンバーン)に載っている入間川に打ち捨てられた鉄道連隊のEタンクを、その小説の情景のように思い浮かべた。
私が実際に「機関車に巣喰う」を読むことができたのは1980年代に入ってからである。海野弘が『モダン都市東京 日本の一九二〇年代』(1983・中央公論社)で龍膽寺雄を取り上げるなど、この頃になって昭和初期のモダニズム文学を再評価する気運が高まり、ようやく、その作品を所収した全集(1984-1986・龍膽寺雄全集刊行会)が刊行されたのだった。

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高校時代に私が初めて読んだ龍膽寺雄の本『風-に関するEpisode』と、同じ頃に、初めてファンレターというものを書き、不躾にも色紙を同封してお願いしたサイン。「美貌は天才の一つだと私は理解する」と書かれている。「機関車に巣喰う」を知ったのはその後で、再度、手紙を書き、放水路の機関車を実際に見たのか訊かなかったことが悔やまれる。

丸ノ内線の詩集

朝倉勇『詩集 神田川を地下鉄丸の内線電車が渡るとき』

maru-01地下鉄丸ノ内線には、茗荷谷-後楽園、御茶ノ水-淡路町、四ツ谷と、地上を走る区間が存在する。なかでも御茶ノ水駅をでてすぐ、神田川を渡り、総武・中央線の下をくぐる区間は、わずかな距離ながら立体交差が面白く、昔の絵本や図鑑によく描かれた。
先日見つけた朝倉勇の『詩集 神田川を地下鉄丸の内線電車が渡るとき』(1983・誠文堂新光社)は、そんな御茶ノ水の地上区間を題材とした詩集である。それも丸ノ内線で通勤する途中、その地上にでる数秒間の印象を、約1年に亘ってメモした日記のような詩集だ。
私は書かれている詩そのものよりも、現代アートを思わせるその着想に惹かれた。

十一月二十五日 火曜日 快晴 九時五十分 左(抜粋)
三階建てと思った左岸の木造建ては
四階建てであった
きのう列島を襲った寒気団に日本の空は洗われた
透明な光があふれている
川に反射した光が
岸と建物にも下から明るさをおくっている
…………

神田川の左岸に見える三階建てと思っていた木造の建物が、後日見たら四階建てであったとか、電車の正面からは神田川が見えないとかいったことが日々記されていく。

三月十六日 火曜日
地下鉄電車が神田川鉄橋を渡る時間を計ってみた
渡りはじめから終りまで
ざっと七秒である
(ただし僕が乗っているのは前から二輛目)
右の窓に川の全景が見えるのは
その半分くらいか
そのくらいの時間になにがみえるか
僕のメモはその実験をしていることにもなる

九月二十一日 火曜日 くもり 九時四十九分(抜粋)
橋の上で地下鉄電車同士のすれちがい
池袋行き電車の走る窓を通じて
国鉄総武線電車の黄色が逆方角に動いている

動く赤の中の動く黄色
橋を渡り切るちょっと前で
すれちがいは終り
くもり日の川がみえた
…………

メモが記されたのは、1975年10月31日から1976年11月17日までで、丸ノ内線は営団、総武線は国鉄、ともにアルミの電車ではなく、赤や黄色に塗られていた時代だった。


ちなみに私もかつて丸ノ内線で通勤していた時期があり、赤い電車には思い入れがある。
本の紹介のついでに、その500形引退時のメトロカードと硬券を紹介しておこう。メトロカードは詩集と同じ御茶ノ水の地上区間、硬券の方は雪の四ッ谷駅の写真がついているが、この新宿駅発行の硬券セットは手作りで、写真はサービス判のプリント、台紙はコピー刷り。別紙で作ったサインカーブの白い帯を貼ってあるのが微笑ましい。

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揖斐の夏

キャプションの詩

小学生の頃、よくでかけていた伯母の家の近くに古本屋があって、そこに“中綴じ”時代の古い「鉄道ファン」が積まれていた。
古いといっても1970年代初頭の話だから、数年前のバックナンバーだったのだが、少年の時分にはえらく昔のもののように思われた。
当時から旧型の車輛に興味があった私は、その「鉄道ファン」を数冊まとめて買うと、飽かずに眺めては、お気に入りの記事のフレーズを繰り返し読んだ。こうした読書の思い出は私だけではないだろう。

ibi-01ibi-02「鉄道ファン」No.49 白井良和著「名古屋鉄道支線めぐり」

「鉄道ファン」No.49(1965.7)掲載の白井良和氏による「名古屋鉄道支線めぐり」もその一つで、単車2輛を一つに繋いで連接車化したモ401も魅力的だったが、「揖斐の夏」と題された写真の、詩のようなキャプションに魅了されてしまった。

揖斐の夏 その1 名鉄谷汲線 谷汲-結城 モ161+モ186 1962年5月
緑したたる雑木林の間をぬって、
名鉄の古強者が岐阜忠節へと下って行く。
樹海に響くタイフォンの音に、
騒々しかった蝉しぐれも一瞬とぎれ、
しばらくは梢にそよぐ葉ずれの音と、
せわしげなジョイントの音の天下となる。

揖斐の夏 その2 名鉄揖斐線 星野-中之元 モ401
揖斐の里の夏は暑い。
フナやメダカを追う童たちが家路につくころ、
単車のハコを二つつないだインスタント連接車が、
車体一杯に斜陽を浴びてトコトコとやって来た。
本揖斐に向かうわずかの客を乗せて……

試しにキャプションを句読点で改行してみたが、殆ど詩になっている。
「その1」の写真は5月の撮影で“蝉しぐれ”には早過ぎるが、強い日差しが真夏を感じさせる。おそらく7月号の掲載に合わせて、キャプションを夏向きに創作したのだろう。
白井氏か、それとも編集者によるものか。昔の趣味人は詩才があった。

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愛知県の岡崎市南公園に保存される名鉄モ401(2007年8月撮影)。
少年時代の憧れだった401が今も健在なのは嬉しい。連接車はその構造が珍しいためか保存されている車輛が多い。惜しむらくは、401と同じように単車2輛を連接車化した仙台市電の300形がなくなってしまったこと。