丸ノ内線の詩集

朝倉勇『詩集 神田川を地下鉄丸の内線電車が渡るとき』

maru-01地下鉄丸ノ内線には、茗荷谷-後楽園、御茶ノ水-淡路町、四ツ谷と、地上を走る区間が存在する。なかでも御茶ノ水駅をでてすぐ、神田川を渡り、総武・中央線の下をくぐる区間は、わずかな距離ながら立体交差が面白く、昔の絵本や図鑑によく描かれた。
先日見つけた朝倉勇の『詩集 神田川を地下鉄丸の内線電車が渡るとき』(1983・誠文堂新光社)は、そんな御茶ノ水の地上区間を題材とした詩集である。それも丸ノ内線で通勤する途中、その地上にでる数秒間の印象を、約1年に亘ってメモした日記のような詩集だ。
私は書かれている詩そのものよりも、現代アートを思わせるその着想に惹かれた。

十一月二十五日 火曜日 快晴 九時五十分 左(抜粋)
三階建てと思った左岸の木造建ては
四階建てであった
きのう列島を襲った寒気団に日本の空は洗われた
透明な光があふれている
川に反射した光が
岸と建物にも下から明るさをおくっている
…………

神田川の左岸に見える三階建てと思っていた木造の建物が、後日見たら四階建てであったとか、電車の正面からは神田川が見えないとかいったことが日々記されていく。

三月十六日 火曜日
地下鉄電車が神田川鉄橋を渡る時間を計ってみた
渡りはじめから終りまで
ざっと七秒である
(ただし僕が乗っているのは前から二輛目)
右の窓に川の全景が見えるのは
その半分くらいか
そのくらいの時間になにがみえるか
僕のメモはその実験をしていることにもなる

九月二十一日 火曜日 くもり 九時四十九分(抜粋)
橋の上で地下鉄電車同士のすれちがい
池袋行き電車の走る窓を通じて
国鉄総武線電車の黄色が逆方角に動いている

動く赤の中の動く黄色
橋を渡り切るちょっと前で
すれちがいは終り
くもり日の川がみえた
…………

メモが記されたのは、1975年10月31日から1976年11月17日までで、丸ノ内線は営団、総武線は国鉄、ともにアルミの電車ではなく、赤や黄色に塗られていた時代だった。


ちなみに私もかつて丸ノ内線で通勤していた時期があり、赤い電車には思い入れがある。
本の紹介のついでに、その500形引退時のメトロカードと硬券を紹介しておこう。メトロカードは詩集と同じ御茶ノ水の地上区間、硬券の方は雪の四ッ谷駅の写真がついているが、この新宿駅発行の硬券セットは手作りで、写真はサービス判のプリント、台紙はコピー刷り。別紙で作ったサインカーブの白い帯を貼ってあるのが微笑ましい。

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揖斐の夏

キャプションの詩

小学生の頃、よくでかけていた伯母の家の近くに古本屋があって、そこに“中綴じ”時代の古い「鉄道ファン」が積まれていた。
古いといっても1970年代初頭の話だから、数年前のバックナンバーだったのだが、少年の時分にはえらく昔のもののように思われた。
当時から旧型の車輛に興味があった私は、その「鉄道ファン」を数冊まとめて買うと、飽かずに眺めては、お気に入りの記事のフレーズを繰り返し読んだ。こうした読書の思い出は私だけではないだろう。

ibi-01ibi-02「鉄道ファン」No.49 白井良和著「名古屋鉄道支線めぐり」

「鉄道ファン」No.49(1965.7)掲載の白井良和氏による「名古屋鉄道支線めぐり」もその一つで、単車2輛を一つに繋いで連接車化したモ401も魅力的だったが、「揖斐の夏」と題された写真の、詩のようなキャプションに魅了されてしまった。

揖斐の夏 その1 名鉄谷汲線 谷汲-結城 モ161+モ186 1962年5月
緑したたる雑木林の間をぬって、
名鉄の古強者が岐阜忠節へと下って行く。
樹海に響くタイフォンの音に、
騒々しかった蝉しぐれも一瞬とぎれ、
しばらくは梢にそよぐ葉ずれの音と、
せわしげなジョイントの音の天下となる。

揖斐の夏 その2 名鉄揖斐線 星野-中之元 モ401
揖斐の里の夏は暑い。
フナやメダカを追う童たちが家路につくころ、
単車のハコを二つつないだインスタント連接車が、
車体一杯に斜陽を浴びてトコトコとやって来た。
本揖斐に向かうわずかの客を乗せて……

試しにキャプションを句読点で改行してみたが、殆ど詩になっている。
「その1」の写真は5月の撮影で“蝉しぐれ”には早過ぎるが、強い日差しが真夏を感じさせる。おそらく7月号の掲載に合わせて、キャプションを夏向きに創作したのだろう。
白井氏か、それとも編集者によるものか。昔の趣味人は詩才があった。

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愛知県の岡崎市南公園に保存される名鉄モ401(2007年8月撮影)。
少年時代の憧れだった401が今も健在なのは嬉しい。連接車はその構造が珍しいためか保存されている車輛が多い。惜しむらくは、401と同じように単車2輛を連接車化した仙台市電の300形がなくなってしまったこと。

黒部猫町探訪

萩原朔太郎の「猫町」を探して

薬に侵された詩人が、療養に訪れた温泉地で、人に化けた猫の群集する町の幻覚を見る。そんなストーリーの小説、萩原朔太郎の「猫町」は、その妖しい魅力で多くの読者を惹きつけている。
「猫町」は画家、イラストレーターの恰好なモチーフともなり、さまざまな挿画の本が刊行されている。
また、清岡卓行の『萩原朔太郎『猫町』私論』(1974・文藝春秋)や、種村季弘、海野弘等が寄稿した『猫町の絵本』(1979・北宋社)など、この小説の謎解きをした本もでているが、「猫町」には、こうした本にも載っていない大きな謎が残されている。それは、この作品のモデルとなった場所が実在したのではと思わせる点だ。
「……私の現実に経験した次の事実も、所詮はモルヒネ中毒に中枢を冒された一詩人の、取りとめもないデカダンスの幻覚にしか過ぎないだろう。……私の為し得ることは、ただ自分の経験した事実だけを、報告の記事に書くだけである。」といったくだりは、たとえそれが幻覚であったとしても、朔太郎自身の体験を綴ったもののように受け取れる。文中には「北越地方のKという温泉」「繁華なU町」と、地名がイニシャルで記される。Kとは、Uとは、いったいどこなのか。
neko-01私は猫町探訪を思い立った。手掛かりとなるのはイニシャルの地名と、「U町へは、小さな軽便鉄道が布設されていた」という記述。作中の詩人はこの軽便鉄道を途中下車し、山道を一人散策することから幻覚の猫町へ迷い込む。軽便鉄道とは、今では汽車や路面電車以上に死語となってしまった言葉だが、一般の鉄道よりも軌間が狭く、小型の車輌を使用する鉄道をいう。費用がかからないことから、昔は地方を中心に数多く敷設された。
まず、『日本の軽便鉄道』(1974・立風書房)という本の要覧から、作品に該当しそうな鉄道を探した。「北越」とは越中と越後。越中は今の富山県、越後は新潟県だから、それらの県を走った軽便鉄道より、沿線に「Kという温泉」のある路線を調べる。「猫町」の初出は文芸誌「セルパン」(第一書房)の1935(昭和10)年8月号、文中で十数年前の体験と記していることから、それより以前に開業していたものでなければならない。
このような条件を充たす鉄道が一つだけ見つかった。それは富山県の旧称・関西電力黒部線、現在は観光鉄道として有名な黒部峡谷鉄道である。1926(大正15)年に宇奈月-猫又間を開業。開業年はやや遅いが、イニシャルの地名Kは黒部、あるいは沿線の黒薙温泉か鐘釣温泉、Uは宇奈月ではないかと思ったのだ。
しかし、驚いたのは“猫又”という駅名だ。猫又は、藤原定家の『明月記』によると、一度に7、8人の人間を食い殺すという、古来より伝承の化け猫で、兼好の『徒然草』第八十九段にも「奥山に、猫またといふもの」がある。水木しげるの漫画でも同名の妖怪が描かれ、「猫又は、三十年あまりも生きている、野生の老猫がなる。特長は、尾の先が二つにわかれていて、人をばかす……」と解説。水木しげるの作品「猫又」は、無人島で食料に困った男が尾の裂けた猫を食べたために、身体から猫の頭が生えだし、やがて化け猫に変わってしまうという話であった。
黒部峡谷の地図を広げてみると、黒部川の猫又よりやや下流には、“ねずみ返しの岸壁”というものが記されている。解説によれば、直立した岸壁で、ねずみも登れずに引き返したというのが名称の由来らしい。猫又は、そのねずみを追ってきた“猫もまた”、引き返したという意味らしいが、妖怪の伝承を隠蔽しているようにも取れる。
とにかくその場所へ出かけてみよう。ある夏の日、私は黒部を訪れた。
黒部峡谷鉄道の起点、宇奈月駅は多くの観光客で賑わっていた。駅前には黒部川電気記念館という黒部川の自然や水源開発の歴史を紹介する施設が建てられている。今では観光鉄道のイメージが強い黒部峡谷鉄道も、もとは水源開発の資材運搬のために作られた鉄道であった。
記念館の前に小さなL形の機関車が展示されていた。鉄道の敷設された頃から使用されたというアメリカのジェフリー社製の電気機関車だ。この鉄道は開業当初から電化されていたのである。

neko-02黒部川電気記念館前に展示される電気機関車EB5。

「猫町」では、「その玩具のような可愛い汽車は、落葉樹の林や、谷間の見える山峡やを、うねうねと曲がりながら走って行った」と、温泉地へ行く軽便鉄道が汽車であったと記している。しかし、汽車という表現が蒸気機関車を指すとは限らない。昔はさまざまな鉄道の列車を慣用的に汽車と総称していたからだ。
駅の窓口で目的の猫又まで切符を求めると、路線図にはちゃんと駅名が載っているにも拘わらず、この駅は一般の乗降用でないといわれた。殆どの観光客が終点の欅平まで購入しているなか、いったい何の目的があるのかと駅員は怪訝な顔つきだ。まさか萩原朔太郎の……と説明するわけにはいかないから、一つ先の鐘釣まで買うことにした。
たしかに猫又は、作業員のためだけに作られた殺風景な駅だった。それでも1937(昭和12)年に欅平へ路線が延びるまでは、ここが終着駅であった。せめて駅名板でもと、私はトロッコの客車からカメラを向けた。妖怪の名前がついた駅名など、全国でもここだけではないだろうか。

neko-03neko-04〈上〉猫又駅の駅名板。〈下〉猫又駅の一つ先にある鐘釣駅付近。

鐘釣で下り列車へ乗り換え、宇奈月に戻ってあたりを散策する。宇奈月は近代的なホテルが建ち、鄙びた風情はないが、朔太郎が猫町と錯覚したU町と思われる場所である。駅前の記念撮影台には黒部峡谷鉄道のトロッコ列車の模型、土産物屋を覗くと店頭に並ぶのはトロッコ饅頭、街灯を見上げればトロッコ列車のシルエットの意匠、町のあちこちにトロッコが現れ、猫町ならぬ“トロッコ町”といった感じだ。
私は猫を探そうと路地裏を歩いてみることにした。なぜか不思議なことに一匹も見つからない。これだけの町なら一匹くらいいたっていいのに。ひょっとするとここは本当の猫町で、小説と同じように人の姿に化けたのではないか?
隣接した富山地方鉄道の駅へでると、駅前に「好日」と題されたブロンズ像が置かれていた。婦人に抱かれた金色の猫がこちらを見ている。その日、宇奈月で見かけた猫は、このブロンズ像一匹だけであった。

neko-05宇奈月駅前のブロンズ像。

後日、『萩原朔太郎全集』第15巻(1988・筑摩書房)の年譜より興味深いことを知った。それは、朔太郎が度々、夏季に避暑を兼ねた温泉旅行をしていたことである。彼が好んで訪れた場所は、郷里の前橋に近い伊香保温泉や四万温泉など。しかし、残念ながら黒部へ行ったという記録はない。
また、黒部峡谷鉄道は当初、専用鉄道として開業し、一般の利用を認めたのは1929(昭和4)年からであった(ちなみに、地方鉄道法による正式な営業免許を受けたのは戦後の1953年)。これでは1935年より十数年前としている文章に合わなくなってしまう。
だが、たとえ実際に訪れていないとしても、私は猫町が黒部のような気がしてならない。温泉好きだった朔太郎が、温泉マークの点在する黒部の地図を眺め、そこに猫又という地名を見つけて、小説「猫町」を着想したのではないだろうか。


本稿は雑誌「ラパン」の1998年9月号に寄稿した「猫町探訪 萩原朔太郎の『猫町』をさがして」に加筆したものである。愛着があってまた掲載することにした。
当時、黒部が「猫町」のモデルなんてことを書いたのは自分だけではないかと得意になっていたが、最近、国会図書館で、改めて「猫町」に関する資料を閲覧し、私の執筆より1年も前に、同じことを指摘した論考があったことを知った。早稲田大学国文学会刊行の「国文学研究」No.121(1997.3)に掲載された都築賢一氏の「山猫と鉢巣電灯(シャンデリヤ)-萩原朔太郎『猫町』探訪記-」である。ただし、アプローチの仕方は違っていて、朔太郎の郷里、前橋の近くに“猫村”という土地が実在したこと(山の根元、“根っこ”の意味らしいが)、また、朔太郎と親交の深かった室生犀星が、当時秘境だった黒部峡谷を踏破した登山家の冠松次郎に関心をもっていたことから、その黒部に猫又という地名を見つけて、「猫町」を着想したのではないかとしている。


neko-06ところで、私は「猫町」の本の蒐集家でもある。
残念ながらオリジナルの川上澄生挿画による『猫町』(1935・版画荘)はないが、その復刻版(1968・政治公論社)を持っている。復刻版は「無限」創刊10周年記念の出版とかで限定1000部。古本市で安く手に入れた(右の画像)。
川上澄生のほか、朔太郎の「猫町」に画家やイラストレーターが挿画を描いた本としては、市川曜子(1996・透土社)、金井田英津子(1997・パロル舎)、山口マオ(1992・私家版)によるものがある。
金井田英津子は、蒸機が牽く列車のほかに、単端風の気動車も描いている。この作品は、町田康が朗読する紙芝居のような“画ニメ”と称するDVD版(2006・東映アニメーション)にもなった。
挿画のかわりに写真を使った本としては、心象写真制作スタッフによる『猫町』(2006・KKベストセラーズ)がある。殆ど猫の写真集といった感じだが、鉄道の写真は草津軽便鉄道。コッペルの蒸機に牽かれた列車が橋を渡る大正時代の絵葉書を載せている。また、妖しげな猫町の写真は、近年まで鎌倉駅の近くに残っていた病院の廃墟を撮ったものだ。
清岡卓行が著した『萩原朔太郎『猫町』私論』(1974・文藝春秋)は、その後、筑摩叢書として復刻された(1991・筑摩書房)。「猫町」だけでなく、朔太郎の詩に登場する猫についても触れている。
つげ義春の『猫町紀行』(1982・三輪舎)は限定600部の豆本。猫町ならぬ“犬目宿”を訪ねる画文集で、その後、『貧困旅行記』(1991・晶文社/新版1995・新潮社)に収録されている。この『猫町紀行』は、北宋社より『猫町の絵本』の依頼があった当初、書くことができず、後に形となった作品らしい。
その『猫町の絵本』(1979・北宋社)は、私が「猫町」に興味をもつきっかけになった本。あとがきにある通り、「十余人の文章家および、同じく十余人の画家に「猫町」を一読していただき、それをきっかけとしておのずと心に浮んだ夢やらイメージやらを各自、自由勝手に書いていただき……」まとめたもの。長新太、水木しげる等によるイラストと、種村季弘、海野弘等による文章を掲載している。なかでも鉄道趣味的に興味深いのは、花輪和一のイラストだろう。山高帽に杖の男とともに、リアルな軽便蒸機の列車を描いている。
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けむりプロとその仲間たち

1960年代末から70年代の鉄道趣味、なかでも軽便・古典機の趣味を語るうえで、けむりプロは欠くことのできない存在である。彼らの発表した詩情あふれる写真、文章、そして誌面のレイアウトは、多くのファンを魅了し、その作品がきっかけで軽便や古典機に興味をもつようになったという人も少なくないだろう。
そんなけむりプロと、彼らの門下生的なグループに再びスポットを当て、当時を振り返ってみようと思う。
(本稿は、2010年10月2日開催の第6回「軽便鉄道模型祭」プレイベント『軽便讃歌―けむりプロの世界』で配布したリーフレットの原稿に一部加筆したものです。)


けむりのデビュー
けむりプロは慶応義塾大学の鉄道研究会を母体として生まれた。あまりにも有名な話だが、彼らの結成は、上芦別の専用線を訪れて感銘を受け、写真集を上梓しようと思い立ったのがきっかけで、1965年頃から、その風変わりなグループ名を名乗るようになる。
最初の発表作品は、上芦別を走った9200ほかを取り上げた「OLD AMERICANS」(キネマ旬報増刊「蒸気機関車」No.2 1967.10)である。
けむりプロがデビューした1960年代末は、国鉄の蒸機が終焉を迎えようとしていた時代で、巷ではいわゆるSLブームが巻き起こっていた。そうしたなかでキネマ旬報社による「蒸気機関車」のような専門誌も創刊され、国鉄機より軽便・古典機に惹かれていた彼らも、多くの作品を発表する機会を得る。SLブームの功績といっていいだろう。

けむりはグラフィックデザイナー
けむりプロの写真は、鉄道と自然、人との融和を捉えた鉄道情景写真である(ちなみに写真家の荒木経惟は、風景に人の加わったものが情景という)。
例えば写真集『鉄道讃歌』(1971・交友社)より、「貝島炭鉱」のシルエットのようなコッペルが通り過ぎるガード下に、一人佇む幼い子が印象的な一枚。あるいは「上芦別物語」の「出庫までのひととき」と題された見開きページに見られる、機関庫の9200に、機関士たちの活き活きとしたカットを添えた組写真。
彼らは写真を組むという行為を撮影と同様に重視する。メンバーの青山東男氏は、近年も復刻されている名著、「岩波写真文庫」にその技法を学んだという。
ブラジルの2フーターを紹介した「ペルス鉄道に乾盃!」(「SL」No.7 1972.冬)では、プロローグの数ページにわたって、古びた色調の情景写真を並べ、読者をメルヘン風な2フーターの世界へと誘う。こうした表現に惹かれたファンも多いに違いない。

kemuri-01「SL」No.7「ROLLING ON A 2—FOOT TRACK ペルス鉄道に乾盃!」

けむり以前の作品
実は、けむりプロとしてデビューする以前にも、既にメンバーの一部が、慶応義塾大学鉄道研究会の名で連載を始めている。1966年7月より「鉄道ファン」に掲載された「台湾の汽車」がそれである。
このなかで一際目を引くのが「基隆炭礦専用鉄道」(No.66 1966.12)。誌面全体を使った裁ち落としの写真が続き、しかも文章は数行のみという、当時の鉄道雑誌では画期的な構成だった。彼らが早い時期から組写真やグラフィックデザインに関心をもっていたことが分かる。
なお、余談になるが、同じ連載の「阿里山森林鉄道」(No.62 1966.8)にあるシェイが、つげ義春の名作漫画「ねじ式」(1968年作)に描かれている。それも殆ど写真のまま、見開きページにである。つげ義春はよほどこのシェイが気に入ったのだろう。

kemuri-02「鉄道ファン」No.66「台湾の汽車6 —基隆炭礦専用鉄道—」

やかんマークのこと
kemuri-03けむりプロの作品は、挿入される図面、地図やイラストも、写真と同じくらい魅力的である。
例えば「竜ヶ崎の風情」「奥行臼の風情」などと題された線路配置のイラスト。味のあるフリーハンドで、そこに添えられた解説も愉しい。
イラストといえば、忘れてならないのが、彼らのトレードマーク“やかん”だ。タイトルページなどにつけられたこのマークもファンに強い印象を与えた。
やかんはいうまでもなく蒸気機関車の象徴なのだろうが、メンバーの行きつけであった銀座の、今はなきドイツ料理店「ケテル」(創業者の名)からヒントを得たとか。
また、やかんマークの周囲に記されることのある「ESTABLISHED by KETTEL MARKER in 1957」のケテル・マーカーとは、彼らの心象鉄道、セント・アメジスト鉄道の創業者の名前だという。メンバーの杉行夫氏によれば、その由来は一日かけても語りきれないらしい。

けむりはコピーライター
けむりプロは、「オメガるーぷ」「すがすが並木」「ひろびろ田んぼ」など、鉄道やその沿線の気に入ったものに“けむり語”とでもいうべき名称をつけるのを得意としたが(彼らは名づけるという意味のドイツ語nennenから、それを“ネンネン趣味”という)、作品のタイトルにも独特なセンスが光る。
例えば「糸魚川のポプラの木」「ミルクを飲みに来ませんか.」。鉄道とは直接関係のない沿線の風物を用い、却ってその鉄道を強くイメージさせることに成功している。
写真集『鉄道讃歌』の広告に使われたキャッチコピー、「けむりプロはポプラの梢を渡る風を思い出しながらこの本を作りました」も同様で、心の琴線に触れる言葉を作るのが巧い。

けむりと賢治
けむりプロが宮沢賢治に傾倒していたことはよく知られている。
『鉄道讃歌』の巻頭にある同名の詩より。
「ああいいな せいせいするな 桜は咲いて日に光り… そのとき突然 腕木信号機がカタリと倒れ われらが親愛なる布佐機関士の 昼一番の列車の出発である」。
この一節は、賢治の詩「雲の信号」「風景」「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」を巧くコラージュするように作られている。
賢治の作風を取り入れた文章には「野辺山 きよさと 甲斐大泉」(「蒸気機関車」No.4 1968.4)がある。
「まるでもう列車はゆっくりになってしまって、すぐ目の前を流れている土の色や粒子の具合が、手にとるようにわかります。」
C56の走る小海線を題材に、軽妙なですます調で綴ったこの紀行文は、隠れた名作である。

心象鉄道という造語kemuri-04
宮沢賢治は自らの詩を心象スケッチと称していたが、けむりプロはそこから“心象鉄道”なる造語を生み出す。
その言葉の意味する、架空の鉄道を構想するという行為は、鉄道模型の世界では別段珍しいことでもなく、それまでにも行われてきたが、心象鉄道と命名されて、改めてそのことを意識するようになった。心象鉄道は一つの趣味のジャンルとして確立する。
彼らの発表した心象鉄道には「南部軽便鉄道」前後篇(「蒸気機関車」No.6 1968.6、No.1 1968.夏)がある。また、87.PRECINCT(けむりプロ+さーくる「軽」)名義で「鉄道模型趣味」に連載された「the DACHS STORY」の石狩軽便軌道も、模型として具体化させたその一つといえる。
“なんかる”こと「南部軽便鉄道」は、メンバーが婚約者の旧家で見た古いアルバムより、彼女の祖父が幻の軽便鉄道の創設者だったと知ることから始まる創作。
前篇では鉄道の歴史と車輛の紹介。もっともらしい鉄道史研究のようでいて、どこかユーモアがある。後篇では実際に乗車したような沿線案内が綴られる。
「南部軽便鉄道」の特色は、実物の写真が掲載されていたことだ。台湾の製糖会社と思しい機関車など、一見しただけでは正体の分からない写真が選ばれ、あたかも実在したような印象を与えるのである。

きせるプロ
けむりプロの門下生的な存在に、きせるプロがいる。夕張鉄道を取材した「鹿の谷の二月」(「蒸気機関車」No.7 1970.冬)でデビューしたきせるプロは、けむりプロと似たようなロゴを使い、自らもその影響があることを認めている。
けむりプロが北海道の簡易軌道を訪れて「ミルクを飲みに来ませんか.」Won’t you come to drink milk?(「鉄道ファン」No.112 1970.9)を発表すれば、きせるプロは「ミルクを飲みに来たものの」we came to drink milk, but(「蒸気機関車」No.14 1971.7)と、それに応えるような作品を発表した。
だが、けむりプロとは世代の違いもあり、蒸機のない軽便や地方私鉄を多く取り上げている。頸城鉄道や井笠鉄道といった軽便のほか、北丹鉄道など、サブロクの地方私鉄を題材とした作品にも趣深いものがある。

汽車くらぶkemuri-05
きせるプロとほぼ同時期に活動を始めたグループに、汽車くらぶがいる。デビュー作の「日高のサラブレッド」(「鉄道ジャーナル」No.47 1971.3)は日高本線のC11を追ったもの。汽車くらぶには国鉄の蒸機を題材とした作品が多いのだが、リーダーであった、いのうえこーいち氏の個人名義で出版された『糸魚川のポプラの木 —東洋活性白土専用線の機関車たち—』(1976・プレス・アイゼンバーン)など、そのタイトルはもちろん、掲載された詩「ポプラの木の下で」も、けむりプロの同名の作品から取られており、彼らの門下生的な一面もあった。
ちなみにこの本は、白い表紙の文庫判ということから“白い小さな本”と称された。鉄道連隊のEタンクについて書かれた佐々木桔梗氏の『E くろがねの馬の物語』(1973・プレス・アイゼンバーン)がその最初で、この装幀が気に入ったいのうえ氏は、その後も『C11227とその仲間たち —大井川鉄道の保存蒸気機関車—』(1977・企画室NEKO)ほか、自動車関係の『シトローエン2CV』(けむりの下島氏のかつての愛車が載っている)、『ホンダZ』を制作している。
「鉄道ジャーナル」には、汽車くらぶの「旅のどこかに」という連載があった。旅先でふと出会った鉄道を紹介したもので、「旅のどこかに」というタイトルが、いかにも70年代の当時を思わせる(アメリカのビートニクやヒッピーの影響か、当時は若者の間で自己探求のような旅をすることがブームだった)。
その連載の「軽便再発見 その1」(No.56 1971.12)に若菜白土石灰専用鉄道とあるのは、実は駒形石灰の専用線で、心象鉄道風な、軌道との偶然の出会いを綴った創作となっている。彼らには、スペインのナローを日本のことのように綴った「布納沙炭礦 三棚専用線」(「SL」No.10 1976)という作品もある。

こっそり ひっそり めだたずに
70年代に入り、軽便鉄道が相次いで廃止されると、いわゆるトロッコ、ナローの専用線に目が向けられるようになる。トロッコや廃線跡を主題とする「鉄道ファン」の連載「こっそり ひっそり めだたずに」は、そんな時代に始まった(このタイトルは、けむりの杉氏の命名)。
第1回は「明鑛平山」(No.123 1971.7)。鉱山の凸電を発見したこの作品は、コンパニー《バプール》なる謎のグループによる。松本謙一氏など著名人による匿名グループという説もあるが、その正体は不明である。
この連載は、トロッコ趣味に傾いていたけむりプロの門下生たちの恰好な発表の場となった。
なかでも、きせるプロと汽車くらぶによる3部作「残された森林鉄道を求めて」(No.136 1972.8、No.148 1973.8、No.150 1973.10)は、けむりプロの手法を受け継ぎ、イラストや地図を効果的に配した佳作である。模型のレイアウトを「残された…」風に紹介したDER FUNFERの「郷ノ原森林鉄道」(「とれいん」 No.14 1976.2)などもあり、ファンに与えた影響は大きい。
「こっそり ひっそり めだたずに」の特色は、たんなるトロッコや廃線跡の情報でなく、それらの詩情がテーマとなっていたことである。また、鉄道に求めるものは何なのか、自己探求を提唱する、いわば“心のアルバム”であったことも特筆すべきだろう。
その連載の、松本謙一氏とけむりプロによる「あの庫に… 津田沼鉄道第2聯隊跡」(No.125 1971.9)に、こんな一節がある。
「我々は何を鉄道に求めるのか。私は永遠の心の豊かさを求めたいと思う。失なわれた鉄路は現身(うつしみ)とは違った夢の拡がりがある。廃線跡に立って独り黙想する時、あるいは何人かで訪れ、そのありし日々を語らう時、その一時の夢の拡がりは心の中に何か大きなものを残してくれるだろう。」

ぎんがてつどうとぽえていっく
「こっそり ひっそり めだたずに」を機にデビューしたグループもいる。ぎんがてつどう(THE MILKY WAY R.R.)とぽえていっく ふおと アーティスツだ。ぎんがてつどうは「立山砂防用軌道」(No.128 1971.12)、ぽえていっく…は奥多摩のダム工事線跡を撮影した「廃線」(No.132 1972.4)でデビュー。この二つのグループは共に「れいろを」の同人であり、メンバーの行き来もあったようである。
宮沢賢治の作品を名乗るぎんがてつどうは、その名の通り、その後、詩や童話といった心象鉄道風な志向を強める。創刊間もない「とれいん」の「僕の心象鉄道」というコーナーに、井笠鉄道の運転士が記した日記のような「俺はけーべんの運転士」(No.2 1975.2)などを発表し、彼らならではの世界を作り上げた。

その後のけむりと仲間たち
70年代も後半になると、けむりプロをはじめとする各グループは、殆ど作品を発表しなくなってしまう。理由は現存する鉄道に魅力がなくなってしまったからか。しかし、彼らの活動が休止したわけではない。けむりプロとその仲間たちは、羅須地人鉄道協会として保存鉄道の建設を始め、「蒸気機関車」に「羅須通信」を連載、あるいは87.PRECINCTとして、模型を制作・製品化、『軽便鉄道 レイアウトの製作』(1978・機芸出版社)を刊行するなど、むしろ精力的に、より広範なジャンルへと展開していった。
そうしたなか、いのうえこーいち氏は個人名義で著作を続け、「軽便紀行」(『軽便鉄道 郷愁の軌跡』1978 毎日新聞社)など、汽車くらぶ時代と変わらない味わいの好著を発表している。
また、同じ頃、次代を担う名取紀之氏もCRANK. UNION名義で登場する。その3部作「2フィート礼讃」(「蒸気機関車」No.46 1976.11、No.48 1977.3、No.50 1977.7)は、後の『トワイライトゾ〜ン』とは趣の異なる、詩的な「こっそり ひっそり めだたずに」の流れを汲むものだった。
kemuri-06なお、90年代には、けむりプロのメンバーも写真を提供した写真集、小林隆則氏の『鉄道青年 いくつかの軽便鉄道の記憶』(1993・鉄道青年社)が刊行されている。かつての『鉄道讃歌』を彷彿させるそれは、けむりプロへのオマージュといっていい。