ウルトラモダンな春

昭和初期・京阪電車の沿線案内

 一九三〇年の歪んだ、疲れきつた春が、舗道の上をよろめいてゐる。酔どれの様に。
 みなさん! あなた方は踊り子の脂肉に、テンポに、光に、スピードに、ビルデイングに、腐れた花の様な春の匂ひを嗅がうとしてゐるのか。春、春、春。
 樹は粋な春服。花は華やかな訪問着。小鳥は歌をこめたシヤンパン。野、空、山、自然の餐宴場だ。さあ、杖をとつて煤烟と塵の街を蹴飛ばさう。春の招待へ……。

『春を京洛で迎へたい。桜を見たい』とダグラス・フエアバンクス夫妻が都ホテルの露台から瞰下した時、限りない思慕と憧憬を寄せたその春が訪れた。さては、洛南宇治の畔、麗湖琵琶の白い胸毛へ。自然と史話に恵まれた京阪沿線の春よ。頌へよ。笑めよ。

 これは昭和初期に発行された京阪電鉄の春の沿線案内にある「プロローグ」。文中のダグラス・フェアバンクスはアメリカの映画俳優で、1929(昭和4)年と1931(昭和6)年に来日した。観光パンフレットらしからぬ文体に驚くが、その表紙も、ダンスを踊る男女や疾走する電車が未来派風(?)のタッチで描かれた“ウルトラモダン”なものだ。
 イラストの電車は転換クロスシートを備えたロマンスカー600形のイメージか。“モボ”と“モガ”がロマンスシートに座って春の行楽にでかける光景を想像する。

トロリー☆スパーク

電車が落とした火花の雫の抄録

 “バチバチ”と音を立て、電車のトロリー・ポールの先端が青白く閃光する。集電器が架線から離線したときに起こるアーク放電、いわゆるトロリー・スパークだ。集電器がポールだった昔の路面電車では、よく、この火花が見られた。
 稲垣足穂(1900-1977)は1922(大正11)年に発表の初期の小説「星を造る人」をはじめ、多くの作品でトロリー・スパークを取り上げている。

その友だちといふのが大の映画熱狂者(ムービイフアン)で、いつもそんな話ばかり、たとへば、真暗な晩、メトロポリタン座の前を曲るボギー電車の屋根に上つて、ポールから零れる緑色の火花で煙草をつける……だの、(稲垣足穂「星を造る人」)

栄町の方から宇治川へ曲つて来た電車のなかゞ綺麗な花で一ぱいにつまつてゐて、車が止ると、花が動き出して、運転台から落ちると同時に人間に変つて散らばつて行つたとか、聚楽館の前を遅く通つた電車のポールの先から火花が零れ落ちて、レールの上に青い花が一條に咲いたとか、(同上)

とほい街角をまがるボギー電車のポールから緑いろの火花がこぼれ落ちる夜、リラの酒場でフランシスピカビアと青い花の秘密をかたつてみたい。(同「僕はこんなことが好き」)

さう云へば、まつくらな晩、電車のポールからこぼれる青い火花を見ると、私はこれこそ最も好きな光であり色だと思はずにはをられません。東京などではダメですが、神戸の山手の初夏の晩など、パシツ! とスパークをして近くのプラタナスや煉瓦塀が真青に照らされる瞬間、私はそこに不思議な未来の世界の展開を見るやうな気が致します。(同「宝石を凝視する女」)

狭苦しい煉瓦横丁の奥に、目付きの怪しい連中が出入している酒場「ダイアナ」があって、真暗な晩、表の電車道に出て、ポールの先から零れ落ちる青い火花を皿に受けて来て、これを肴に火酒を飲むことを想像してみた。(同「カフェの開く途端に月が昇った」)

 トロリー・スパークがでてくるくだりは、まだほかにもある。足穂がトロリー・スパークを意識するようになったのは、青年時代を回想したエッセイ、「カフェの開く途端に月が昇った」(冒頭に掲載の『人間人形時代』〈1975・工作舎〉所収)によると、関西学院中学部時代の同級生で、足穂に似た小説もいくつか遺している猪原太郎の影響だという。

「真暗な晩、電車のポールの先から零れ落ちる緑色の火花の雫」を、授業中の紙のやり取りによって猪原に教えられてからは、相生町界隈や宇治川筋が、電車がよく火花を零す区域として、私に銘記されていた。もう一ヶ所あった。それは元町の東外れの鯉川筋からレールにそうて、サンボルンホテルの前へ到る曲りカドである。ここでは、パラパラと赤青の火花が、板塀に貼られたムーヴィのビラを明滅させながら落ち零れて、軌道の上に落椿に似た青い花の雫が溜るような気がしていた。(同上)

 「カフェの開く……」には相生町、宇治川筋、鯉川筋といった神戸の地名が並ぶ。足穂が神戸の関西学院中学部に在籍したのは1914(大正3)年から1919(大正8)年のこと。その頃の神戸の市内電車にはどんな車両が走っていたのだろう。クロスシートを配した名車700形が登場するのは1935(昭和10)年だから、足穂の関西学院時代にはまだ走っていなかったが、開業以来、先進的な技術に積極的だった神戸市電は、1919(大正8)年に、C車(91-100)という我が国初の低床ボギー車を導入している。このボギー車という言葉も、度々足穂の作品に登場する。

 なお、1920(大正9)年の寺田寅彦(1878-1935)の著作に、緊張を強いる満員電車と、その緊張をほぐす銭湯について記した「電車と風呂」というユニークなエッセイがあるが、寺田はそのなかで、トロリー・スパークを「電車のポールの尖端から出る気味の悪い火花」「いらだたしい火花」と表現している。トロリー・スパークに美を見出した足穂たちとの違いが興味深い。

 昭和初期になると、ほかの作家や詩人の作品にもトロリー・スパークが見られるようになる。
 芥川龍之介(1892-1927)は1927(昭和2)年作の遺稿で、トロリー・スパークへの熱い想いを吐露している。

 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。〈中略〉彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線は不相変(あひかはらず)鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。(芥川龍之介「或阿呆の一生」八 火花)

 龍膽寺雄(1901-1992)は1930(昭和5)年刊の、当時、新興芸術派と称した作家たちのオムニバス、『モダンTOKIO円舞曲』のなかで、トロリー・スパークをモダンな都会の風物に挙げている。

モダン都市東京の心臓ギンザは、夜と一緒に眼をさます。
真紅・緑・紫。
眼の底へしみつくネオンサイン。
イルミネエシヨンのめまぐるしい点滅はシボレエの広告塔。
パツ!
トロリイに散る蒼いスパアク。
夜間営業の夜の窓々を輝かした百貨店の七層楼。
(龍膽寺雄「甃路(ペエヴメント)スナツプ」)

 版画家の藤牧義夫(1911-1935?)は失踪する3年前の1932(昭和7)年、荒々しいタッチで閃光する路面電車を描いた「(御徒町驛)(東京夜曲A)」を制作。その版画に詩を添えている。

フラフラと電車がやつて來る。
あのスパークはため息だ。
吐く息は皆蒼い。
驛もガードも人も車も。
僕はうれしくなつて目を閉ぢた。
(藤牧義夫「御徒町驛の附近で」)

 北園克衛(1902-1978)は1934(昭和9)年に発表の、夢の記述を思わせる掌編に奇妙なトロリー・スパークを記している。

……櫟の林を登って丘づたいに暫く行くと、丁度丘の真下を一台の白塗の電車が静かに音もなく走って行った。しかもこの白塗の電車は回教徒の寺院に聳えているような球型の二つの小さな塔を前後に持っていて、その塔の先端がポオルの役目をしているらしくスパアクの青い閃光を夕暮に近い衰えた光線の中で鮮やかに見ることが出来た。(北園克衛「猟」)

 北園克衛は大正期、「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」というダダイズム、未来派の前衛詩誌を編集、足穂もその同人だったことから影響を受けたのかもしれない。北園にはボギー車をモチーフとしたなんとも好もしい詩があるが、これも足穂の影響か。

線路のなかに山百合の花が咲いてゐる 十五分おきに若い運転手が白いボギイ車を動かし乍ら鼻歌に合せてベルを鳴らして来る 車の中でマドモアゼルがたつた一人カアネイシォンのやうに揺れてゐるのを御覧!(同「電車」)

 萩原朔太郎(1886-1942)は1936(昭和11)年に上梓した詩集『定本青猫』の自序で、表題の「青猫」について、「都会の空に映る電線の青白いスパークを、大きな青猫のイメーヂに見てゐる」と解説している。朔太郎はトロリー・スパークとは明言していないが(同名の詩「青猫」にも電車はでてこない)、足穂が「カフェの開く……」で記した通り、「夜の電車のスパーク」に違いない。

 足穂や朔太郎の世界を絵画化したような漫画を描いた鴨沢祐仁(1952-2008)もトロリー・スパークを好んで取り上げた。
 漫画家としてのデビューは1975(昭和50)年、その年に発表された「プラトーン・シティー」では、夜の散歩にでかけた少年クシー君と兎のレプスが、後ろからやって来る路面電車の音を聞いて形式の“当てっこ”をする。
 クシー君「これは雨宮製作所の木製ボギー車デハ5だね」
 レプス「うんん この音はモハ28だもん!」
 なんともマニアックな台詞。正解はクシー君だった。二人の横をトロリー・スパークを光らせた花巻電鉄の細面な“馬面電車”こと、デハ5が通り過ぎる。
 また、「ラムネ水は月の光」にも花巻の電車が登場。兎のレプスが、電車のポールからこぼれ落ちた金平糖のようなトロリー・スパークを捕まえる。
 鴨沢祐仁は花巻に近い岩手県北上市の出身で、幼年時代に走っていた花巻電鉄の路面電車を「マッチ箱の電車」と呼んで親しんでいたという。


『クシー君の発明』(1980・青林堂)所収
「ラムネ水は月の光」より

 クシー君シリーズの漫画としては最後の作品と思われる1996年作の「クシー君のピカビアな夜のはじまり」では、これまたマニアックな今はなき向ケ丘遊園のモノレールが登場する。モノレールの高架下をゆくのは、イギリス風の2階建て路面電車。そのポールの先からトロリー・スパークが猫の形になってモノレールに飛びかかる。朔太郎の「青猫」である。「青猫」を見たロボットのビットは意味不明な歌を歌いながら踊り出す。
 「ビットのやつ 青猫の電気(スパーク)で酔っぱらったらしいぞ」
 同じように「向こうから来た人」でも、ドイツのデュワグカー風の路面電車のパンタグラフから猫の形をした火花が現われる。
 「青猫(ヤツ)の正体は電車の火花(スパーク)じゃよ」
 鴨沢祐仁は2008年に56歳の若さで急逝、寡作だったこともあり遺された作品は多くないが、その独特な世界観の漫画やイラストには今も熱狂的なファンがいる。

*稲垣足穂「星を造る人」「宝石を凝視する女」(のち、「宝石を見詰める女」に改題)の出典は初出誌(「婦人公論」1922年10月号、1928年5月号)より。全集収録のものとは細部が異なっている。

昭和モダンの恋と電車と

西條八十の流行歌の歌詞にみる鉄道

「東京行進曲」(4番)
シネマ見ませうかお茶のみませうか
いつそ小田急(をだきふ)で逃げませうか
変る新宿あの武蔵野の
月もデパートの屋根に出る。

 戦前から戦後にかけ、数多くの流行歌の歌詞を手がけた詩人の西條八十(1892-1970)。その代表作「東京行進曲」(作曲:中山晋平・歌:佐藤千夜子)に小田急が歌われるのはよく知られている。レコードの発売は1929(昭和4)年、小田急はその2年前、1927(昭和2)年に開業した。歌詞にある「シネマ」や「デパート」と同様、郊外電車は昭和初期のモダンな存在だった。
 当時、「いつそ小田急で逃げませうか」の歌詞を聴いた小田急の重役が、社名を略されたうえ(開業当初の社名は小田原急行鉄道。のち、小田急の略称が定着し、社名も小田急電鉄に)、“駆け落ち電車”にされたことに腹を立て、レコード会社に怒鳴り込んだというエピソードがあるが、一方で、小田急が「東京行進曲」のレコードを買い込み、宣伝としてバラまいたという話もある。
 もともと小田急のでてくるくだりは「長い髪してマルクス・ボーイ 今日も抱へる『赤い恋』……」だったのを、官憲がうるさそうだからと急遽書き替えたものといわれる。紀伊國屋書店の創業者、田辺茂一の随筆『わが町・新宿』(1976・サンケイ出版/2014・紀伊國屋書店)によれば、「いつそ小田急で逃げませうか」は、なにやらハプニングがあって、西條八十とある女性がベッドの下に隠れていたときに彼女が囁いた言葉だとか。田辺茂一が西條八十から直接聞いたという。
 浅原六朗の随筆『都会の点描派』(1929・中央公論社)では、新宿で見かけたある女性が「ランデヴウのパアトナア」に、「小田急にしませうよ。××温泉あたりまで行つたつていゝぢやないの」と囁いていた。文末に(昭3・11) とあるから「東京行進曲」が発売される前。既にその頃から小田急の略称で呼ばれ、箱根へ向かうカップルの“ロマンスカー”として使われていたことが分かる。
 ちなみに、1931(昭和6)年に発売された同じ西條八十作詞の「梨木小唄」(作曲:町田嘉章・歌:羽衣歌子)には東武電車がでてくる。歌詞の内容からご当地ソングとして依頼されたのだろう。

「梨木小唄」(3番)
東武電車につい誘はれて
恋の赤城の紅葉狩(もみぢがり)
暮れてうれしい梨木の宿
肌も紅葉の湯の加減。
  遠くて近いが恋のみち、
  梨木、湯の里、恋の里

 西條八十は「東京行進曲」の10年後の1939(昭和14)年に発売された「東京ブルース」(作曲:服部良一・歌:淡谷のり子)にも、また小田急を登場させている。

「東京ブルース」(4番)
昔恋しい 武蔵野の
月はいづこぞ 映画街
ああ 青い灯(ひ)赤い灯 フイルムはうたふよ
更けゆく新宿 小田急の窓で
君が別れに 投げる花

 戦後、小田急は社名の普及に貢献した西條八十を箱根に招き、かつての非礼を詫びて終身乗車パスを贈呈した。そんなこともあってか、1951(昭和26)年には「君さそうグリーンベルト」(作曲:上原げんと・歌:鶴田六郎)、「ほんのり気分」(作曲:上原げんと・歌:久保幸江/有木山太)、翌年には「湯の町小唄」(作曲:上原げんと・歌:久保幸江/鶴田六郎)など、小田急やその観光地の地名を入れた歌を作詞している。西條八十は実際に家族と好んで箱根へでかけたという。

「君さそうグリーンベルト」(3番)
シネマ帰りに 小田急の汽笛
聞けばまた湧く 旅ごころ
伊豆のいで湯の ひと夜の夢が
忘れられない 紅椿

「ほんのり気分」(2番の一部)
飲んであの子と 踊ったすえは
いっそ小田急で 湯の町へ

「湯の町小唄」(5番)
粋な小田急の ロマンスカーも
二度は忘れず 来るものを
お湯なら湯本と 塔の沢
ホイなぜにあなたは チョイト今日見えぬ

 「湯の町小唄」には「ロマンスカー」という言葉がでてくる。小田急が列車にロマンスカーの名称を用いるようになったのは1949(昭和24)年から。「湯の町小唄」に歌われたのは初代ロマンスカーの1910形か、それとも全席転換クロスシートとなった1700形か。
 ロマンスカーといえば後年の1961(昭和36)年に作られた、3000形SE車のオルゴール音「ピポー」を連呼するCMソング、「小田急ピポーの電車」(作詞作曲:三木鶏郎・歌:ザ・ピーナッツ/ボニージャックス)があるが、それ以前にもこのような歌が作られていたのだった。
 なお、1950(昭和25)年に発売された「東京夜曲」(作詞:佐伯孝夫・作曲:佐々木俊一・歌:山口淑子)にも小田急が歌われている。作詞の佐伯孝夫は西條八十の門下生だった。

「東京夜曲」(3番)
二人一つの想い出の
匂い薔薇よ小田急よ
やさしいソファーに 燃える身を
ああ 投げて夢見る 夢の果て
甘い吐息か 東京セレナーデ

 ところで「東京行進曲」には、小田急だけでなく地下鉄も登場する。

「東京行進曲」(3番)
広い東京恋故(ゆゑ)せまい
いきな浅草忍び逢ひ
あなた地下鉄私はバスよ
恋のストツプまゝならぬ。

 レコードが発売された当時、地下鉄は1927(昭和2)年の末に開業した東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)の上野〜浅草間のみ。前述した『都会の点描派』には、東京で地下鉄に乗ったことが田舎に帰って土産話になるとある。地下鉄は東京で最もモダンな乗り物だった。
 地下鉄の開業間もない頃、雑誌の記者をしていた上林暁が「地下鉄道見参記」(「改造」1928.3)を書いている。

 毎日汲み出すといふレエルの間の溝に澱んだ水を眺めてゐると、向うからカアがやつて来た。それが停ると、こちらのカアが警笛を鳴らして、不愛想なセメントの壁の中を走り出した。隧道の天井の灯がこぼれるやうに車窓の上部から掠めて過ぎる。
〈中略〉全線一哩三分、ゆつくり走つて五分時の間は、少くとも我々は現実世界から遊離して、ソロモンの壺にでも封じ込まれてゐるやうな妖精じみた感触を全身に感じながら、はるかに知らぬ世界を旅行してゐるのだ。

 大げさな喩えが、いかにも地下鉄初体験らしい。西條八十は1935(昭和10)年発売の「東京双六」(作曲:江口夜詩・歌:松平晃/ミス・コロムビア)にも地下鉄を登場させている。

「東京双六」(3番)
花の浅草 みどりの上野
むすぶ地下鉄 恋の闇
うごく途端に燈火(あかり)が消えりや
ここが東京のエチオピヤ。

 「うごく途端に燈火が消えりや」とは、かつての地下鉄車両の、ポイント通過時に消えていた照明をいっているのだろうか。「東京のエチオピヤ」は意味不明だが、当時、ムッソリーニのイタリア軍がエチオピアに侵攻したことから、危険な場所を意味しているのかもしれない。
 このほか、東京地下鉄道が銀座まで延長された1934(昭和9)年には、「主婦之友」(1934.5)に「地下鉄」と題した詞を掲載している。「ゴー・ストップ」「カフェー」「フルーツ・パーラー」など、銀座のモダンな風物をモチーフとした「唄の銀座に絵の銀座」のなかの一つで、西條八十の詞に“モガ”を得意とした田中比左良がイラストを添えている。

「地下鉄」
洞穴(ほらあな)の口でランデヴー、
土龍(もぐら)の恋ぢやありません、
モダン銀座の景色です。
眩い春の日を避けて、
恋の暗路(やみぢ)をしんみりと
ゆく地下鉄もオツなもの。
彼女左翼ぢや無いけれど、
今日恋人と手をとつて
地下に潜入いたします。

 「彼女左翼ぢや無いけれど」というのが詞にそぐわない感じがするが、前述した「マルクス・ボーイ」がその頃の流行語で、マルキストを装うのがお洒落だったように、「左翼」という言葉もモダンな響きだったのか。
 銀座開通の3か月後、さらに新橋まで延長されると、東京地下鉄道は「東京小唄」(作詞:佐藤惣之助・作曲:佐々紅華・歌:藤本二三吉)、「僕の東京」(作詞:佐藤惣之助・作曲:江口夜詩・歌:松平晃)といったCMソング的なレコードを作り、優待乗車券つきで各地に配ったという。西條八十とは関係ないが、ついでにその歌詞も紹介しておく。

「東京小唄」(2、4番)
下に地下鉄 ありやせのせ
二階は銀座 こりやせのせ
上り 上り下りの よいよやさの 夕涼み

逢ふて浅草 ありやせのせ
別れて上野 こりやせのせ
またの またの逢瀬は よいよやさの 新橋で

「僕の東京」(3番)
かはす微笑み リラの花束
かほる地下鉄 懐かしの都
ランランララララ 僕の東京

 昭和初期、ケーブルカーもまたモダンな乗り物だった。西條八十は、「マダム神戸」(作曲:中山晋平・歌:佐藤千夜子)、「京都行進曲」(作曲:中山晋平・歌:四家文子)、「強羅をどり」(作曲:中山晋平)、「四季の日光」(作曲:奥山貞吉・歌:米倉俊英/関種子)など、鉄道会社や観光地から依頼されたと思われるこれらの歌にケーブルカーを登場させている。

「マダム神戸」(3番)
摩耶(まや)はケーブル六甲はリンク 恋のリユツクサツク肩にかけ
山のすみれを外人墓地に あげる日曜二人づれ

「京都行進曲」(2番)
行こか京極 戻ろか吉田
ここは四条のアスファルト
比叡のケーブル 灯(ひ)ともし頃は
胸に想ひの灯もともる

「強羅をどり」(7、9番)
ハー 恥かしや
わたしや強羅の
 ケーブルそだち
旅のおかたに
旅のおかたに
 のぼりつめ。
ハー またおいで
登山電車は
 チヨイト段梯子(だんばしご)
強羅 東京の
強羅 東京の
 中二階。

「四季の日光」(2番)
夏の日光、ヨットの白帆、
今日もゆくゆく、幸(さち)の湖(うみ)。
  おや、誰だか振つてる、ハンケチを、
  男体山(おやま)のぼりのケーブルカー。

 「東京行進曲」の翌年の1930(昭和5)年に発売された「京都行進曲」は、その焼き直し的な歌。比叡山へ登るケーブルカーは八瀬〜比叡間と坂本〜延暦寺間の2路線があるが、京都市街の地名がでてくるので前者の叡山ケーブルを歌ったのだろうか。
 「強羅をどり」は後に劇作家となる北條秀司が、箱根登山鉄道庶務課長をしていた時代に依頼したもので、西條八十主宰の詩雑誌「蝋人形」(1935.9)に掲載されている。北條秀司は草軽電鉄の駅を舞台とした戯曲「山鳩」(後に映画化)で知られる、軽便や路面電車が好きな作家でもあった。

*掲載詞の主な出典:『西條八十全集』8、9(1992、1996・国書刊行会)

浅間高原

俳人青邨の知られざる名随筆


 高浜虚子に師事した俳人で、随筆家としても知られた山口青邨(1892-1988)。『花のある随筆』(1934・龍星閣)所収の「浅間高原」(1931)は、青邨が小瀬温泉から草津温泉へ向かった一人旅を綴ったもので、今はなき軽便鉄道、草軽電鉄でのできごとなどを、ユーモアをちりばめて描写している。

 昭和の初め、まだ電気がなく、宿ではランプを灯していたという小瀬温泉。そんな鄙びた温泉に泊った翌日、青邨は宿の子どもにトランクを持たせて草軽電鉄の長日向駅に向かう。草津行きの下り列車に合わせて宿をでてきたのだが……。

駅に来て見ると誰も居ない、家の中を覗いて見ると駅員が一人、靴を穿いたまゝ上り端に仰のけになつて寝てゐる、グーグーと鼾さへ聞える、僕は成るべく知らんふりをして、何とかして自然に起してやらうと靴の音をさせたり、話をしたりした、それでも知らないで眠つてゐる、宿の子供がそこの入口の敷居にトランクをゴツンと置いた、と同時に駅員は眼をさました。そこで
 「電車は来るでせうね」と聞くと
 「えゝ、今度は三時何分です、えゝ、と、今度のはこゝへはとまりませんから」
 そんなことを言ひながら、起きて帽子を被つた、金ピカの筋の帽子を被ると、その人は駅長さんだつた、尤も駅長さんと言つても、外に誰もゐるぢやなし、何でも一人でする駅長さんである、まだ若い人だ、

 手元にある昭和10年代の時刻表を見ると、長日向など途中駅に止まらない列車が何本かあったようだ。
 駅長はさっきも同じような客が来て、隣の小瀬温泉駅まで歩いてもらったと話す。しかし、時間は既に小瀬温泉を出た下り列車がこちらへやって来る頃であった。

 「飛び乗りは出来ないでせうね」
 「いや、さういふことは出来ません」
 「困つたなア、どうも」
 そのうちに駅長は僕のことがだん/\気の毒になつて来たやうであつた。
 「こゝで、上りと下りがすれ違ひになるのです、若し下りが先に来れば、上りを待つてゐなければなりませんから、もしかすれば乗れるかも知れません」
〈中略〉
 チン/\、チン/\と電鈴が鳴つて来る、……又暫らくするとチン/\、チン/\と電鈴が鳴つて来る、
 「大丈夫、乗れます、もう下りが向ふの駅を出ましたから、上りより早く来ます、大丈夫です」
 駅長は向ふへ行つて、下りのシグナルを下した、すると、下の方から、落葉松の林の中から、軋る音がして、電車が現はれて来た、と、今度は、上の方から、ガーツと音がして、もう一つの電車が現はれて来た、駅長は今度は上の方へ走つて行つてシグナルを下した、

 青邨が急いで来た列車に乗ると、それを見ていた駅長が手を横ざまに大きく何遍も振った。慌てて方角を間違え、上り列車に乗ってしまったのだった。

その時はもう、だん/\スピードを上げようとしてゐる時であつた、〈中略〉僕は思ひ切つて飛び下りた、トランクを持つてゐる重さと、電車の反動とでよろ/\とよろめいた、だが、一生懸命に踏みとゞまつて、転ぶのを持ちこたへた、そして、そのまゝの姿勢で、まだ動かずにゐる電車に向つて駆け出した。
 之に出られてはたまらない、僕は駅長にも眼を呉れず、ばた/\と急いで乗つたのである、さうしてから駅長に向つて挨拶をした、
〈中略〉電車はがた/\と音して、草津に向つて発車した、僕は、バスター・キートンの冒険を思ひ出した、この山間の小駅で、この小さな冒険を伴ふ喜劇を演じたのだ、トランクをぶら下げて、昇降台を飛び降りる時の悲愴な気持、いや全く活動写真のアドヴェンチュアだ。

 青邨は列車の中で、長野から来たという婦人にリンゴを貰い、車窓を眺めながら彼女の話を聞く。貸切になっている隣の客車からは蓄音機らしい朗らかな音楽が聞こえてきた。

 窓外には女郎花や桔梗や吾亦紅がすでに咲いて居た、それにまじつて、花菖蒲が咲いてゐた、又甘草の花が咲いて居た、そして所々に白樺がさゞめいて居た、それは高原特有の眺望であつた。
 「八月の十二日は長野ではお盆の花市が立ちましてね、善光寺様の門前は桔梗や女郎花などの秋草で埋まるんでございますのよ、それがみんなこの辺から取つて行くのです、軽井沢から貨車に積んで参るんですの」
〈中略〉
 電車が草津に近づくに従つて秋草の色はだん/\に濃くなつて行つた。

 「浅間高原」を収めた『花のある随筆』には、ほかにも軽便鉄道やトロッコがでてくる作品がある。
 「檜原湖」(1927)では裏磐梯の檜原湖まで行くのに、川桁から樋の口まで沼尻鉄道に乗車したことが綴られている。

この電車は沼尻といふ硫黄山まで行つて居るので、掘りだした硫黄を運ぶ為めのものだ。だから客車の外に貨車をつないでゐる。それに乗つて桑畑の中を通たり、田のへりを過ぎたりして行く。
 磐梯山は少しの雲もなく、眼前に峨々と聳えてゐる。大きな山だ。〈中略〉田には人や馬が働いてゐる。田掻をしてゐる処もある。田植をしてゐる処もある。畔には何といふ花か知らないが、黄色い菊の様な花が茎を高く抽いて咲いてゐる。萱草の赤い花もある。田掻馬にくつついて小馬が泥田の中をぼちや/\追つかけてゐる。

 汽車のはずが“電車”と記しているのが残念だが、磐梯山や馬が田掻きをしている風景など、初夏の沼尻鉄道の車窓が描写されている。
 また、鉱山の視察を題材とした(青邨の本業は地質学)創作風の「旅先でのこと」(1930)では、山間の小さな駅と鉱山を繋ぐ軌道のトロッコに乗るシーンが幾度かでてくる。

 鉱山長とO君はその靄の中にうつすり見えて居る吊橋のところからトロに乗つて鉱山の役宅まで帰つて行くのである。トロがコロ/\コロ/\と静かな澄んだ音を立てゝ暫く聞えて居た。

 最後に青邨の俳句を一句。

シグナルに咲きそふ山のをみなへし

 秋草の女郎花と信号のある風景が、「浅間高原」に描かれた草軽電鉄の小駅を思わせる。