「軽便鉄道」の本島三良

宮澤賢治を見出した鉄道趣味人

 晩春の黄昏時(たそがれどき)であつた。周囲(あたり)は次第に薄闇(うすやみ)のなかにとけ込んで、丸い月が森の彼方から上りはじめた。雑木林や森に囲まれた駅長と駅員二人しかゐない小さな駅で私は茫然(ぼんやり)と汽車を待つてゐたのである。やがて森の向ふでポーといふもの寂しい汽笛が聞えたかと思ふと、暫くして微かな点燈が薄暮の中に揺れて、軽便鉄道の列車が目の前に現はれた。ちつぽけなアメリカ製のタンク機関車が後ろ向きに自分よりはるかに大きい客車を二輌牽引して止つたが、降りる人もなく、私を乗せると再び悲鳴に似た汽笛をあげて、シリンダーから一杯蒸気を吐出し乍らゴトンゴトン走り出した。(略)

 小説を思わせる書き出しのこの文章は、昭和初期から活動していた鉄道趣味人で、『鉄道ピクトリアル』の初代編集長でもあった本島三良氏(1904-1988)のエッセイ。月刊『旅』の1939(昭和14)年5月号に掲載された「軽便鉄道」である。
 乗合馬車など、ノスタルジックな乗物の小特集「乗物時代色」のなかの一章で、軽便鉄道の歴史や、当時既に消えつつあった各地の路線の蒸気機関車を紹介、その最後に、未だ蒸気機関車のみで運行を続けていた岩手軽便鉄道(釜石線)に触れている。

(略)又東北では花巻から仙人峠に至る六十五粁、花巻の天才詩人故宮澤賢治がその詩の中に称へた岩手軽便鉄道も、今亦官営の手に帰して最近釜石線と云ふ名称になつたが、やがて改築されて詩人の幻に見た銀河鉄道の玩具列車が現実列車に変る日も遠くはあるまい。此処には日露の戦後、満鉄が安奉線で使用したボールドウヰン製の機関車が走つてゐる。

 注目されるのは「天才詩人故宮澤賢治がその詩の中に称へた岩手軽便鉄道」とあること。エッセイの掲載時、宮澤賢治(1896-1933)は今日ほど広く知られていなかった。岩手軽便鉄道が賢治の作品のモチーフとなったことを記したのは、おそらくこれが初めてだろう。
 賢治が生前に上梓した2冊の本、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』(ともに1924年刊)は自費出版で、各千部の発行。しかもほとんど売れなかったという。賢治が亡くなった翌年の1934(昭和9)年から、高村光太郎、草野心平等の編集により『宮澤賢治全集』が刊行されるが、この全集も文圃堂という、本郷の東大前にあった小さな書店の刊行で、全3巻のうち、詩集の1、2巻が各800部程度、童話集の3巻が千部ちょっとという。賢治は一部の文学愛好家のみが知る存在だったのである。
 賢治の名が知られるようになるのは、本島氏のエッセイが掲載される2か月前の1939(昭和14)年3月に羽田(はだ)書店から刊行された『宮澤賢治名作選』がきっかけだった。
 だが、この『宮澤賢治名作選』には岩手軽便鉄道をモチーフとした作品は収録されていない。本島氏は文圃堂版の『宮澤賢治全集』を読んでいたのだろう。冒頭の小説風の描写でも分かるように、氏は鉄道だけでなく文学にも造詣が深かったようだ。
 ちなみにエッセイ掲載の翌月(6月)には、十字屋書店が文圃堂を引き継いで、全集の刊行を始めている。さらに翌年の1940(昭和15)年には「風の又三郎」が映画化され(監督:島耕二)、ようやく賢治の名が全国に広まっていった。