みちのく温泉電車紀行」カテゴリーアーカイブ

岩佐東一郎と秋保電鉄と

みちのく温泉電車紀行[1]

 以前、古書市で見つけた岩佐東一郎の『ちんちん電車』。タイトルや満員電車が描かれた表紙カバーが気になって入手したのだが、1955(昭和30)年発行のこの本は、あまとりあ社刊、タイトルの上に「風流読物集」とある。路面電車の思い出を綴った獅子文六の同名の著書とは別物で、「あまとりあ」らしい艶話が載っている。『ちんちん……』とは、そっちの意味だったのだ。
 岩佐東一郎(1905-1974)は堀口大学に師事した詩人でありながら、NHKラジオのバラエティ番組「とんち教室」に出演したり、軟派系の雑誌にもよく執筆したようだ。
 『ちんちん電車』は2部構成で、前半は遊廓や待合などでの艶笑譚だが、後半はそうした話以外の小説や紀行文。そのなかに「ふらいぱん寺」と題した東北紀行があり、1961(昭和36)年まで長町-秋保温泉間を走っていた秋保電鉄や、秋保温泉への連絡バスがユーモラスに紹介されている。

 著者がまだ大学生だった時代というから昭和の初め頃のことだろう。休暇を利用して一人、松島見物にやって来たのだが、列車内で旅行案内を見て、近くの長町駅から秋保温泉へ行く私鉄電車がでていることを知り、急遽、下車することにした。しかし、長町駅前の街道に、それらしい電車の乗り場は見当たらない。

 すると、運よく、郵便配達夫が横丁から出て来たので、早速に私は、
 ――あのう、電車は何処にあるのですか?
 と、まるで、子供が玩具の電車でも探しているように訊く。
 ――ここからデシ。
 実に簡単明瞭なものである。その「ここからデシ」と云うのは、石材倉庫なのだ。私は別に石材を調査に来たわけではないから、
 ――あのネ、電車なんでシが?
 そろそろ、こつちの言葉も怪しくなる。
 ――そうデシ。ここからデシ。
 ――どうも、ありがとう。
 さつぱり判らなくなつたが、郵便屋はそれきり黙つて立つたまま、私が行動するのを、見守つているから、ままよ、とその石材倉庫の中に歩み入つた。
 入つて、おどろいたことに、その石材倉庫のうすぐらい中に、電車が一台とまつていたではないか。私も、色んな電車を知つてはいるが、石材倉庫の中の電車とは、生れて始めてである。倉庫が即ち「秋保温泉行電車」の始発駅でもあつた。ははんと感じ入つてる私に、電車の車掌が
 ――発車しまシから、お早く願いまシ。
 と云うので、あわてて乗りこむと、電車は倉庫の中を動いて裏側の田圃の方へ引いてある線路を、ゆるやかに走り出した。

 かつての秋保電鉄長町駅の写真を見ると、大きく「秋保石」と書いた看板がでていたりして、たしかに石材倉庫に見えないこともない。1914(大正3)年に馬車軌道の秋保石材軌道として開業したこの路線は、温泉への湯治客の輸送もあったが、社名の通り、付近で採掘される秋保石の運搬が主な目的だったようだ。
 1925(大正14)年に軌間を762ミリから1067ミリに改軌して電化。小さな電車が湯治客を、凸電が石材を運ぶようになった。岩佐東一郎が秋保温泉を訪れたのは、電化して間もない頃だった。

 温泉に近づくにつれて、山々の紅葉の美しさが、私の旅情を慰さめてくれた。時には、両側の窓に樹々の枝がふれて、車内にまで紅葉を舞いこませるほどである。……
 いつか、うとうとと居睡りしていた私の耳に、のんびりひびいて来る、
 ――あきう、あきう、どなたさまも終点でシ。お忘れものないよう願いまシ。
 と云う車掌の声に、眼をさましました。秋の日は、もう、とつぷり暮れて肌寒い風が身にしみる。
 五六人の客と共に下車すると、道のわきに古びた旧式なフオードが一台。運転手兼車掌らしい男が
 ――温泉行バシは、すぐ出まシ。
 と呼んでいる。自動車のワキ腹に「一人金五銭」と書いてあるのに、誰も乗ろうとしない。たつた五銭なのに、田舎の奴つてケチなもんだと義憤を感じた私だけが乗つた。
 ――すぐかね。
 ――すぐでシ。
 私の聞いた意味は、すぐ発車するのかと云う意味だつた。
 エンジンをかけた旧式フオードは、身ぶるいして走り出したが、まもなくガタンと止まつた。
 故障でも起したのかと思つてると、
 ――ここでシ、温泉は。走り出してから二分と乗らない内に、着いたのだから、誰もわざわざ旧式フオードに乗らぬわけだ。

 温泉の旅館は下宿を思わせる粗末な造りで、女中は山姥みたいな凄い笑い方をした。
 翌日は松島見物へ。塩釜に向う汽船に乗るが、そこでイギリス人の婦人と出会い、彼女に同行して拙い英語のガイドをする羽目になる。タイトルの「ふらいぱん寺」は、そのとき、塩釜の御釜神社の訳が思いつかず、苦し紛れに「フライパン・テンプル」と答えたことから。
 この随筆の初出は「旅」(日本交通公社)の1950(昭和25)年10月号で、「旅の珍談奇談」という連載の一つとして発表された。

『思い出の秋保電車』宮崎繁幹・編
(2004・交通新聞社)

田宮虎彦と花巻電鉄と

みちのく温泉電車紀行[2]

 新藤兼人監督による1956(昭和31)年製作の映画「銀(しろがね)心中」は、冬の鉛温泉が舞台で、当時、花巻-西鉛温泉間を走っていた花巻電鉄鉛線の名物、車幅の狭い“馬面電車”が名脇役を演じている。
 映画は道ならぬ恋の悲劇。夫の戦死を告げられた佐喜枝(乙羽信子)が青年の珠太郎(長門裕之)と恋仲になるが、戦後、亡くなったはずの夫が戻ってからも珠太郎への想いを断ち切れず、その後を追いかける。しかし、辿り着いた先で珠太郎に拒まれ、絶望した佐喜枝は命を絶ってしまう。
 珠太郎が暮らす温泉へ佐喜枝が向うシーンで、雪の中を走る馬面電車や車内風景がでてくるほか、佐喜枝に追われた珠太郎が電車に飛び乗るシーンや、吹雪で止まった電車の前を佐喜枝が歩くシーンにも馬面電車が登場する。
 1969(昭和44)年まで営業を続けた花巻電鉄鉛線だが、1960年代初めには車輛の新造などで、旧型の馬面電車は予備車になってしまう。映画の撮影された頃が、最後の佳き時代といえるだろう。

 原作は田宮虎彦(1911-1988)による同名の小説。1952(昭和27)年の作品で、田宮は舞台となる鉛温泉の、日本一深い岩風呂で有名な藤三旅館に逗留して、この小説を執筆したという。

 鷹巻の温泉から、東北山脈の山ふところに湯量の豊富な温泉が点在している。鷹巻の駅から小さなおもちゃのような電車が通じていて、小沢温泉、檜岐平温泉、西檜岐平温泉、そして終点の、もう嶮しい山々が折り重なるように両側から迫った一番奥にしろがね温泉があるのだった。

 花巻は鷹巻といったように地名が仮名になっている。

 その切なさに堪えきれなくなって汽車にのった。そして、寒々と空に凍りついているような山肌を、小さな電車の中から一人みた。

 珠太郎を追って佐喜枝が温泉に向うくだりである。
 しかし、花巻電鉄と思しい電車が登場するのはこれくらいで、映画と較べるともの足りない。
 そのかわり、映画化された1956年の「旅」(日本交通公社)11月号に、花巻電鉄の馬面電車を詳しく紹介したエッセイを載せている。「小説「銀心中」の舞台 -作者がみた鉛温泉の旅情」がそれで、これがなかなか趣深い。

 花巻電鉄などというと、いかにもいかめしく聞えるけれども、東北本線花巻の駅から鉛温泉まで私たちを乗せていつてくれるあのはゞのせまい小さな電車は、妙に切なく旅情をさそう。坐席に腰かけると、むかいあつて腰をかけた人と膝小僧をつきあわす。どちらかが膝をよぢらせてよけなければ、たがいちがいに膝小僧をくみあわせるようになる。電車の車体のはゞが、それほどせまいのだ。二輌連結して走つてゆくのだが、レールのとぎれめとぎれめにガタンガタンと車体を前後にあふつて、ぎこちなく山間を登つてゆく。この電車のことを、つがいのキリギリスに似ているといつた人があるが、やせたキリギリスとこの電車との組みあわせは、まことにたくみな表現である。詩的であるとさえ思われる。
 鉛温泉は、東北本線花巻の駅から、その電車で、花巻温泉とは逆な方向に、小一時間ゆられて行きつく終点にある。
〈中略〉
 花巻の山うしろの幾つかの温泉は、〈中略〉庶民の湯治場である。それは、ちようど、花巻電鉄の、あのはゞのせまい小さな電車のように、華美という言葉とは縁遠い。しかし、なつかしく切ない旅情の思い出を、一度そこに遊んだ人の心に、いつまでも残す。
 花巻から、はゞのせまい小さな電車に、しばらくゆられてゆくうちに、秋のこの頃なら、車窓は山の紅葉をうつくしくうつしはじめるだろう。その紅葉にうづまつて、温泉宿がひつそりと息づいている。私も、もう一度、いつてみたいと思う。

 誰が名づけたのか“つがいのキリギリス”とは妙な表現だが、なんとなく分かる感じもする。

 ちなみに映画の「銀心中」は、川本三郎氏の著作を読んでその存在を知った。氏の『日本映画を歩く』(1998・JTB)では、「銀心中」のほかにも、軽便鉄道、ナローゲージが登場する映画として、「挽歌」(北海道の殖民軌道)、「飢餓海峡」(川内森林鉄道)などを紹介している。


「旅」(日本交通公社)1956(昭和31)年11月号