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子規庵と汽車

明治の頃の根岸の里

 正岡子規が下谷区上根岸町(現在の台東区根岸)に引越してきたのは1892(明治25)年。その2年後には、すぐ近くに転居。ここが1902(明治35)年に34歳の若さで亡くなる子規の終の住処となった。
 根岸界隈はかつて、文人墨客の隠棲するところとして知られていた。また、“黒板塀に見越しの松”の妾宅も多かったという。
 閑静だった根岸の里も1883(明治16)年に東北本線が通るようになると、その様子が大きく変わっていく。
 子規が暮らした家は線路から100メートルほどしか離れていなかった。

その辺にうぐひす居らず汽車の音

 引越してきた当初に詠んだ句である。鶯横町と呼ばれる通りへ来たのに、聞こえてきたのは汽車の轟音だった。五百木良三宛の引越し通知には「汽車は一時間に一度位の地震をゆり出して」とあるが、東北本線のほかに高崎線もあり、時間帯によってはもっと短い間隔で列車がやってきた。
 しかし、そんな環境にも次第に馴れて、汽車が生活の一部になっていく。引越して数年後の1896(明治29)年にはこんな句を詠んでいる。

汽車過ぐるあとを根岸の夜ぞ長き
椽側へ出て汽車見るや冬籠

 こうした作品には汽車への親しみが感じられる。「汽車過ぐる……」は、子規の俳句のなかで筆者が一番好きな句。終列車が通り過ぎてしまった後のもの寂しさ、テレビやラジオ、クルマもなかった時代の静かな秋の夜長が感じられる。
 「汽車過ぐる……」は何時頃の列車を詠んだのか。当時の時刻表(明治29年9月30日付)を見ると、赤羽発22:00、上野着22:20が、子規の家の前を通る最も遅い列車だった。
 夜中の汽車は1901(明治34)年の随筆『墨汁一滴』にもでてくる。

この頃の短夜とはいへど病ある身の寐られねば行燈の下の時計のみ眺めていと永きここちす。
午前一時、隣の赤児泣く。
午前二時、遠くに雞聞ゆ。
午前三時、単行の汽缶車通る。
午前四時、紙を貼りたる壁の穴僅(わずか)にしらみて窓外の追込籠(おいこみかご)に鳥ちちと鳴く、やがて雀やがて鴉。
(略)

 「汽車過ぐる……」が秋の夜長なら、この一章は6月の短夜。病床にあった子規は不眠症に悩まされ、夜が明けるまで聞こえてくる物音を記録する。
 深夜には単機回送があったらしい。「汽車過ぐる……」も単行の機関車だったのかもしれない。
 小熊米雄氏も『鉄道ファン』No.88(1968.10)の、「鶯谷界隈」と題した随筆のなかで『墨汁一滴』を紹介し、当時、田端機関庫に在籍した機関車から、子規が聞いたのはピーコックの2Bテンダ(5500)かスケネクタディーの1B1タンク(900)だろうと推測する。
 小熊氏は幼少の頃、根岸のタヌキが汽車に化けた話を聞いたことがあるという。
 鉄道が開通して間もない頃、毎夜、終列車が根岸のあたりに差しかかると、こちらに向かってくる汽車が現れた。しかし、機関士が慌ててブレーキをかけると、その姿は消えてしまう。ある夜、衝突を覚悟して突っ込むと、翌朝、線路の上で老いたタヌキが死んでいたという。そのタヌキと関係があるのか、子規の暮らした家の近くには狸横町と呼ばれる通りもあった。

根岸にあった子規の終の住処は戦災で焼失。戦後、同じ場所に再建され、「子規庵」として公開されている。

谷中霊園より御隠殿坂を下り、右に見える跨線橋でJRの線路を越えると「子規庵」のある根岸にでる。子規のいた頃、跨線橋はまだなく踏切だった。左の道が踏切に至る当時のものらしい。

「フォード万歳」のこと

「私の思い出写真」の思い出

 70年代半ばの『鉄道ファン』に「私の思い出写真」という連載があった。そのタイトルから、特にゲテモノを取り上げる連載として始めたわけではないのだろうが、第1回が、牧野俊介氏による「南筑軌道のオバQ機関車」と題した石油発動車だったからか、その後も根室拓殖の単端や淀川のドコービルなど、ナローの変わった車両が多く紹介された。
 なかでも第2回の、臼井茂信氏による「フォード万歳」(1975.4)は、足尾銅山馬車鉄道を走っていたガソリン機関車を捉えたもので、A型フォードのボンネットに簡単なキャブをつけただけのスタイルには大きな衝撃を受けた。
 実は「フォード万歳」には“プレゼント”があって、掲載された写真の密着焼き手札判が、抽選で読者に贈られた。
 写真は臼井氏の中学時代の1934(昭和9)年、掲載より41年前の撮影ということで、中高生に限り、先着41名としたが、予想に反して希望者が多かったため、抽選100名に改められている。
 当時、足尾を訪れた臼井氏と同じ学年の中学生だった私は、巻末にあったその告知を目ざとく見つけると、すぐに葉書を送って写真を入手したが、私のようなのは少数派で、ナローのゲテモノに興味をもつ10代の若者がそんなにいたとは思えない。応募葉書には学校名や学年も明記することになっていたが、自分や知人の子どもの名前を借りて応募した大人も結構いたのではないか。

ハイゼット万歳

私の思い出珍写真[1]

 1980年代初めのことである。今はなき日立電鉄を撮影した帰り、常磐線の車窓に妙なものを見つけた。線路の上に軽トラが載っていたのである。
 早速、最寄りの天王台で下車し、近くまで行ってみると、フロントマスクの形から「ドラえもん」と呼ばれる360ccのダイハツ・ハイゼット(4代目)とトロッコが、レールを流用したと思われる長いリンクで繋がれていた。
 クルマはもとのホイールのまま、その周りが車輪になっている。ナンバーもついているので、車輪をタイヤに交換して道路も走る「軌陸車」なのかもしれない。
 その日は既に日が暮れて、うまく撮影できなかったため、後日再訪してみると、ハイゼットは2ストロークエンジン特有の白煙を吐きながら、バラストを積んだトロッコを牽引して、線路を行ったり来たりしていた。
 当時、常磐線の我孫子〜取手間では複々線化の工事が行われていた。ハイゼットは新しく敷いた線路のバラストを撒くために使われていたのだった。

 近年ではDMV(Dual Mode Vehicle)と称する車両が登場しているが、天王台で見たような、既存のクルマに車輪を履かせたものも、調べてみるといろいろあるようだ。
 名鉄には軽トラの三菱ミニキャブ(5代目)を改造した保線用のモーターカーがあるという。外観はほとんど軽トラのまま、天王台で見たハイゼットと似ている。
 また、1950年代のフランス国鉄には、シトロエン2CVバンの保線用モーターカーがあったという。

廃線とブタ

私の思い出珍写真[2]

 相鉄の相模大塚から分岐し、厚木飛行場へ続いていた引込線は、戦時中の1941(昭和16)年に敷設されたもので、戦後、飛行場とともに米軍が接収、1998年まで航空燃料の輸送に使われたという。
 今ではレールが撤去され、その跡地に家が建っているが、それまでの長い間、引込線は放置されたまま、ところどころに草が生い茂るなど、寺田寅彦(夏目漱石の門下生でもあった)の俳句「昼顔やレールさびたる旧線路」を思わせる風情があった。

 20年ほど前、海老名で小田急ファミリー鉄道展を見た帰りに、この引込線を訪れてみた。
 線路は1キロ程度の短い距離ながら、建て込んだ民家の中を抜けたり、東名高速の上を渡ったりと変化に富んでいた。ビンケースやゴミバケツなどが置かれた居酒屋の裏手には小さな踏切もあった。
 そんな踏切をカメラに収めようと近づいて行くと、線路に何やら大きな黒い動物が見えた。大型犬か? それにしてはズングリしている。さらに近づいて見ると、それは大きな黒ブタだった。
 東南アジアの線路端にブタが佇む写真を見たことがあるが、まさか日本でこんな光景に出会うとは……。体にはハーネス(胴輪)がつけられ、誰かが飼っているようだが、飼い主は見当たらず、一匹だけでモクモクと線路に生えた草を食んでいた。
 近年ではブタもペットとして人気があるらしいが、こんなに大きなブタを飼う人がいたのか。すぐ近くには「厚木豚」と看板に記した店など、飲食店が軒を連ねていたので、もしかしたら食用だったのかもしれない。

後日訪れると、今度はネコがポーズをとってくれた。