1960年代末から1970年代の鉄道趣味、なかでも軽便や古典機の趣味を語るうえで、けむりプロは欠くことのできない存在である。彼らの発表した詩情あふれる写真、文章、そして誌面のレイアウトは、多くのファンを魅了し、その作品がきっかけで軽便や古典機に興味をもつようになったという人も少なくないだろう。
ここでは、そんなけむりプロと、彼らの門下生的なグループに再びスポットを当ててみようと思う。
(本稿は、2010年10月2日に開催された第6回「軽便鉄道模型祭」のプレイベント『軽便讃歌-けむりプロの世界』のパンフレットに加筆したものです。)
けむりのデビュー
けむりプロは慶応義塾大学の鉄道研究会を母体として生まれた。あまりにも有名な話だが、彼らの結成は、上芦別の専用線を訪れて感銘を受け、写真集を出版しようと思い立ったのがきっかけで、1965年頃から、その風変わりなグループ名を名乗るようになる。
最初の発表作品は、上芦別を走った9200ほかを取り上げた「OLD AMERICANS」(キネマ旬報増刊『蒸気機関車』No.2 1967.10)である。
けむりプロがデビューした60年代末は、国鉄の蒸機が終焉を迎えようとしていた時代で、巷ではいわゆるSLブームが巻き起こっていた。そうしたなかでキネマ旬報社による『蒸気機関車』のような専門誌も創刊され、国鉄機より軽便・古典機に惹かれていた彼らも、多くの作品を発表する機会を得る。
けむりはグラフィックデザイナー
けむりプロの写真は、鉄道と人、自然との融和を捉えた鉄道情景写真である(ちなみに写真家の荒木経惟は、風景に人の加わったものを情景という)。
彼らはまた、写真を組むという行為を撮影と同様に重視する。メンバーの青山東男氏は、近年も復刻されている「岩波写真文庫」にその技法を学んだという。
ブラジルの2フーターを紹介した「ペルス鉄道に乾盃!」(『SL』No.7 1972.冬)では、プロローグの数ページにわたって、古びた色調の情景写真を並べ、読者をメルヘン風な2フーターの世界へと誘う。こうした表現に惹かれたファンも多いに違いない。
『SL』No.7「ROLLING ON A 2-FOOT TRACK ペルス鉄道に乾盃!」
けむり以前の作品
実は、けむりプロとしてデビューする以前にも、既にメンバーの一部が、慶応義塾大学鉄道研究会の名で連載を始めていた。1966年7月より『鉄道ファン』に連載された「台湾の汽車」がそれである。
そのなかでも一際目を引くのが「基隆炭礦専用鉄道」(No.66 1966.12)。誌面全体を使った裁ち落としの写真が続き、しかも文章は数行のみという、当時の鉄道雑誌では画期的なレイアウトだった。彼らが早い時期から組写真やグラフィックデザインに関心をもっていたことが分かる。
なお、余談になるが、同じ連載の「阿里山森林鉄道」(No.62 1966.8)にあるシェイが、つげ義春の名作漫画「ねじ式」(1968年作)に描かれている。それもほとんど写真のまま、見開きページにである。つげ義春はよほどこのシェイが気に入ったのだろう。
『鉄道ファン』No.66「台湾の汽車6 -基隆炭礦専用鉄道-」
やかんマークのこと
けむりプロの作品は、挿入される地図やイラストにも、写真と同じくらいの魅力がある。
例えば「竜ヶ崎の風情」「奥行臼の風情」などと題された線路配置のイラスト。味のあるフリーハンドで、そこに添えられた解説も愉しい。
イラストといえば、忘れてならないのが、彼らのトレードマーク“やかん”だ。タイトルページなどにつけられたこのマークもファンに強い印象を与えた。
やかんはいうまでもなく蒸気機関車の象徴なのだろうが、メンバーの行きつけだった銀座の、今はなきドイツ料理店「ケテル」(創業者の名)からヒントを得たとか。
また、やかんマークの周囲に記されることのある「ESTABLISHED by KETTEL MARKER in 1957」のケテル・マーカーは、彼らの心象鉄道、セント・アメジスト鉄道の創業者の名前だという(メンバーの杉行夫氏によれば、その由来は一日かけても語りきれないものらしい)。
けむりはコピーライター
けむりプロは、「オメガるーぷ」「すがすが並木」「ひろびろ田んぼ」など、鉄道やその沿線の気に入ったものに“けむり語”とでもいうべき名称をつけるのを得意としたが(彼らは名づけるという意味のドイツ語nennenから、それを“ネンネン趣味”という)、作品のタイトルにも独特なセンスが光る。
例えば「糸魚川のポプラの木」「ミルクを飲みに来ませんか.」。鉄道とは直接関係のない沿線の風物を用いながら、その鉄道を強くイメージさせることに成功している。
写真集『鉄道讃歌』(交友社・1971)の広告に使われたキャッチコピー、「けむりプロはポプラの梢を渡る風を思い出しながらこの本を作りました」も同様で、心の琴線に触れる言葉を作るのが巧い。
けむりと賢治
けむりプロが宮沢賢治に傾倒していたことはよく知られている。
『鉄道讃歌』の巻頭にある同名の詩より。
ああいいな せいせいするな 桜は咲いて日に光り… そのとき突然 腕木信号機がカタリと倒れ われらが親愛なる布佐機関士の 昼一番の列車の出発である
この一節は、賢治の詩「雲の信号」「風景」「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」を巧くコラージュするように作られている。
賢治の作風を取り入れた文章には「野辺山 きよさと 甲斐大泉」(『蒸気機関車』No.4 1968.4)がある。
まるでもう列車はゆっくりになってしまって、すぐ目の前を流れている土の色や粒子の具合が、手にとるようにわかります。
C56の走る小海線を題材に、軽妙なですます調で綴ったこの紀行文は隠れた名作だ。
心象鉄道という造語
宮沢賢治は自らの詩を心象スケッチと称していたが、けむりプロはそこから“心象鉄道”なる造語を生み出す。
その言葉の意味する、架空の鉄道を構想するという行為は、鉄道模型の世界では別段珍しくなく、それまでにも行われてきたことだが、心象鉄道と命名され、改めてそのことが意識されるようになった。心象鉄道は鉄道趣味の一ジャンルとして確立する。
彼らの発表した心象鉄道には「南部軽便鉄道」前後篇(『蒸気機関車』No.6 1968.6、No.1 1968.夏)がある。また、87.PRECINCT(けむりプロ+さーくる「軽」)名義で『鉄道模型趣味』に連載された「the DACHS STORY」の石狩軽便軌道も、模型として具体化させたその一つといえる。
“なんかる”こと「南部軽便鉄道」は、けむりプロのメンバーが婚約者の旧家で見た古いアルバムより、彼女の祖父が幻の軽便鉄道の創設者だったと知ることから始まる創作。
前篇は鉄道の歴史と車輛の紹介。もっともらしい鉄道史研究のようでいてユーモアもある。後篇では実際に乗車したような沿線案内が綴られる。
「南部軽便鉄道」の特色は、実物の写真が掲載されていたこと。台湾の製糖会社と思しき機関車など、一見しただけでは正体の分からない写真が選ばれ、あたかも実在したような印象を与えたのである。
きせるプロ
けむりプロの門下生的な存在に、きせるプロがいた。夕張鉄道を取材した『鹿の谷の二月』(「蒸気機関車」No.7 1970.冬)でデビューしたきせるプロは、けむりプロと似たようなロゴを使い、自らもその影響があることを認めている。
けむりプロが北海道の簡易軌道を訪れて「ミルクを飲みに来ませんか.」Won’t you come to drink milk?(『鉄道ファン』No.112 1970.9)を発表すれば、きせるプロは「ミルクを飲みに来たものの」we came to drink milk, but(『蒸気機関車』No.14 1971.7)と、それに応えるような作品を発表した。
だが、けむりプロとは世代の違いもあり、蒸機のない軽便や地方私鉄を多く取り上げている。頸城鉄道や井笠鉄道といった軽便のほか、北丹鉄道など、サブロクの地方私鉄を題材とした作品にも味わい深いものがある。
汽車くらぶ
きせるプロとほぼ同時期に活動を始めたグループに、汽車くらぶがいた。デビュー作の「日高のサラブレッド」(『鉄道ジャーナル』No.47 1971.3)は日高本線のC11を追ったもの。汽車くらぶには国鉄の蒸機を題材とした作品が多かったが、リーダーだった、いのうえこーいち氏の個人名義で出版された『糸魚川のポプラの木 -東洋活性白土専用線の機関車たち-』(プレス・アイゼンバーン・1976)など、そのタイトルはもちろん、掲載された詩「ポプラの木の下で」も、けむりプロの同名の作品から取られており、彼らの門下生的な一面もあった。
ちなみにこの本は、白い表紙の文庫判ということから“白い小さな本”と称された。鉄道連隊のEタンクを題材とした佐々木桔梗氏の『E くろがねの馬の物語』(プレス・アイゼンバーン・1973)がその最初で、この装幀が気に入ったいのうえ氏は、その後も『C11227とその仲間たち -大井川鉄道の保存蒸気機関車-』(1977・企画室NEKO)ほか、車の本の『シトローエン2CV』(けむりプロの下島啓亨氏が乗っていた2CVも掲載されている)『ホンダZ』を制作している。
『鉄道ジャーナル』には、汽車くらぶの「旅のどこかに」という連載があった。旅先でふと出会った鉄道を紹介したもので、「旅のどこかに」というタイトルが、いかにも70年代を思わせる(ヒッピーの影響か、当時は若者の間で自己探求のような旅をすることがブームだった)。
その連載の「軽便再発見 その1」(No.56 1971.12)に若菜白土石灰専用鉄道とあるのは、実は駒形石灰の専用線で、心象鉄道風な、鉄道との偶然の出会いを綴った創作になっている。彼らには、スペインのナローを日本の鉄道のように紹介した「布納沙炭礦 三棚専用線」(『SL』No.10 1976)という作品もある。
こっそり ひっそり めだたずに
70年代に入り、軽便鉄道が相次いで廃止されると、いわゆるトロッコ、ナローの専用線に目が向けられるようになる。トロッコや廃線跡を主題とする『鉄道ファン』の連載「こっそり ひっそり めだたずに」は、そんな時代に始まった。タイトルの命名は、けむりプロの杉行夫氏である。
第1回は「明鑛平山」(No.123 1971.7)。鉱山の凸電を発見したこの作品は、コンパニー《バプール》なる謎のグループによる。松本謙一氏など著名人による匿名グループという説もあるが、その正体は不明だ。
「こっそり ひっそり めだたずに」は、トロッコ趣味に傾いていたけむりプロの門下生たちの恰好な発表の場となった。
なかでも、きせるプロと汽車くらぶによる3部作「残された森林鉄道を求めて」(No.136 1972.8、No.148 1973.8、No.150 1973.10)は、けむりプロの手法を受け継ぎ、イラストや地図を効果的に配した佳作。模型のジオラマを「残された…」風に紹介したDER FUNFERの「郷ノ原森林鉄道」(『とれいん』No.14 1976.2)などもあり、ファンに与えた影響は大きい。
「こっそり ひっそり めだたずに」の特色は、たんなるトロッコや廃線跡の情報でなく、それらの詩情がテーマになっていたことである。また、鉄道に求めるものは何なのか、自己探求を提唱する “心のアルバム”だったことも特筆すべきだろう。
同連載の、松本謙一氏とけむりプロによる「あの庫に… 津田沼鉄道第2聯隊跡」(No.125 1971.9)に、こんな一節がある。
我々は何を鉄道に求めるのか。私は永遠の心の豊かさを求めたいと思う。失なわれた鉄路は現身(うつしみ)とは違った夢の拡がりがある。廃線跡に立って独り黙想する時、あるいは何人かで訪れ、そのありし日々を語らう時、その一時の夢の拡がりは心の中に何か大きなものを残してくれるだろう。
ぎんがてつどうとぽえていっく
「こっそり ひっそり めだたずに」を機にデビューしたグループもいた。ぎんがてつどう(THE MILKY WAY R.R.)と、ぽえていっく ふおと アーティスツである。ぎんがてつどうは「立山砂防用軌道」(No.128 1971.12)、ぽえていっく…は奥多摩のダム工事線跡を撮影した「廃線」(No.132 1972.4)でデビュー。この二つのグループは共に『れいろを』の同人で、メンバーの行き来もあったようだ。
宮沢賢治の作品を名乗るぎんがてつどうは、その名の通り、詩や童話を得意とし、創刊間もない『とれいん』の「僕の心象鉄道」というコーナーに、井笠鉄道の運転士が記したような創作、「俺はけーべんの運転士」(No.2 1975.2)を発表するなど、彼らならではの世界を作り上げた。
その後のけむりと仲間たち
70年代も後半になると、けむりプロをはじめとする各グループは、ほとんど作品を発表しなくなってしまう。理由は現存する鉄道に魅力がなくなってしまったからか。しかし、彼らの活動が休止したわけではない。けむりプロとその仲間たちは、羅須地人鉄道協会として保存鉄道の建設を始め、『蒸気機関車』に「羅須通信」を連載、あるいは87.PRECINCTとして、模型を制作・製品化、『軽便鉄道 レイアウトの製作』(機芸出版社・1978)を刊行するなど、むしろ精力的に、より広範なジャンルへと展開していった。
そうしたなか、いのうえこーいち氏は個人名義で執筆を続け、「軽便紀行」(『軽便鉄道 郷愁の軌跡』毎日新聞社・1978)など、汽車くらぶ時代と変わらない味わいの作品を発表している。
また、同じ頃、次代を担う名取紀之氏もCRANK. UNION名義で登場する。その3部作「2フィート礼讃」(『蒸気機関車』No.46 1976.11、No.48 1977.3、No.50 1977.7)は、後の『トワイライトゾ〜ン』とは趣の異なる、詩的な「こっそり ひっそり めだたずに」の流れを汲むものだった。
なお、90年代には、けむりプロのメンバーも写真を提供した小林隆則氏の写真集『鉄道青年 いくつかの軽便鉄道の記憶』(鉄道青年社・1993)が刊行されている。かつての『鉄道讃歌』を彷彿させるそれは、けむりプロへのオマージュといえるだろう。