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田端の高台にて

室生犀星の詩にみる大正の汽車・電車


明治末から大正にかけて、田端には多くの文学者や美術家が集まった。金沢から上京した室生犀星(1889-1962)も、そんな田端に10年ほど暮らしている。
 近藤富枝の『田端文士村』(1975・講談社/1983・中公文庫)によると、田端で転居を繰り返した犀星は、結婚の翌年の1919(大正8)年から1921(大正10)年まで、高台通りの裏手にあった二軒長屋に住んだというが、そこは今よりも王子寄りにあった旧田端駅や田端操車場を見下ろす台地の端にあった。
 その頃に刊行された犀星の詩集『寂しき都会』(1920・聚英閣)に「高台にて」という作品がある。

「高台にて」
私が高台にうつり住んでから
毎日汽車の音をきかない日はない
すぐ窓のしたに起るのだ
ときには憂鬱に遠くからしてくるのもある
いきなり停車場にとまつたらしく
大きな囃し立てるやうな呼吸をついて
さぞ壮んな白い湯気を吐いてゐるだらうと思はれるのもある
また駄駄をこねてゐるらしい子供のやうなのもある
さうかとおもふと優しく
しづかに通りすぎる少女のやうなのもある

いろいろな汽笛がする
ときには深夜ふと目をさますと
遠くから走つて来るらしい音響がする
おほかた淋しい白いレールを走つてゐるのだらうとおもひながら
私はたばこをのみながら耳をかたむける
ひと間隔てて家のものも寝入り込んだと見え
小さな息づかひもしない
本も冷たい背中を見せてゐる
しんとしてゐるのだ
私はまづいたばこを幾服もやる
さうしてみんなが寝入りこんだ間にも
陰気に生き
暗い戸から開け放されて来たやうな
重い音響の近づいてくるのをきく
暗い太鼓をたたくやうな音だ
近づくごとにその音響の暗みが剥がれて
唐黍の葉巻をむくやうに明るくなつて来る
そのなかでも
上野から夜明けと一しよに
そらの明るくなつたころにやつてくる
一番列車がある
すぐ窓のしたで高くひと声鳴き立ててゆく
その汽笛が天をさしつらぬいて
悲しげに鳴りひびくのを目を閉ぢてきくと生きものともつかない
一種の永い呼吸のやうなものが
天をさしてどこまでも消えることなく
りうとして登つてゆくのが見える
どこまで行くかわからない
高く高くそして見えなくなる

 深夜の家に聞こえてくる汽車の音は、さまざまなイメージを喚起させただろう。
 大正の中頃、当時は尾久を経由する路線ができる前で、東北本線も田端を通っていた。聞こえてきた機関車は8620形(ハチロク)か9600形(キューロク)、あるいは日本鉄道時代の古典機かもしれない。川上幸義氏の『新日本鉄道史』(1968・鉄道図書刊行会)によれば、上野〜大宮間の列車には、近距離快速用の1B1タンク、900形が大正末年まで使われていたという。
 同じ詩集には「展望」と題する田端の操車場を望んだ作品もある。

「展望」
真黒な貨車が幾列にもなつて休んでゐる
窓も屋根も煤だらけである
どんよりと曇つた空のしたで
あるものはもぐもぐと亀虫のやうに動き
あるものは何時までもぢつとしてゐる
何だか豚みたいな気がする
そのわきを活気のある汽車や
電車がどどどと走つてゐる
線路のそとに王子へゆく道路があつて
荷馬車が幾つも通つてゐる
馬子の姿が砂ほこりのなかに動いてゐる
そこは片側町でうしろは
ずつと一面の田甫になつてゐる
枯れ枯れな立木がちらばつてゐて
やや遠くに王子電車の
きいろい胴ツ腹がうすい日ざしのなかを
つーつーと走つてゐるのが見える

けむりが曇つたあたりを罩(こ)めてゐる
ときどき汽罐車が狂気のやうになつて
笛をならしながらやつてきて
貨車をつれてゆく
貨車はしかたなしにつれられてゆく
どどどと地ひびきがする
終日これらの全景がくりかへされてゐる

さうかと思ふと工夫らが鶴嘴をあげながらがつちりと打ちおろしながら
何やら唄をうたつてゐる
それは機械的にのんびりきこえてくる
みんな寂しさうだ

 どんよりとした曇り空の下に広がる操車場は寂しげだ。
 操車場は犀星が田端にやって来た前年の1915(大正4)年に開設された。貨車を連れてゆく機関車は旧日本鉄道のタンク機か。大正の頃はまだ人家も疎らで、遠く王子電軌(現在の荒川線)の電車も眺められたようだ。
 震災のあった1923(大正12)年まで、王電の車輌はみな単車だった。当時のモノクロ写真に「きいろい胴ツ腹」を思わせる明るい塗装の王電は見当たらないが、黄色は実際の塗装ではなく、詩人の心に映った色だったのかもしれない。山手線を題材とした犀星の随筆風な小説「桃色の電車」(1920)も、その表題は女学生で混雑する朝の列車の印象を表したものだった。
 犀星は山手線がお気に入りだったようで、「桃色の電車」の冒頭には、こんなことが記されている。

 山の手線の電車を一日に一度づつ見に出るくせがついて了つて、見に出ない日はもの寂しい気がした。崖の上からみることもあり、すぐ線路に沿つた青い土手のうへからや、停車場の柵にもたれて眺めることなどもある。ときには切符を買つてふいと乗つて、上野に着いてあちらこちら歩いて、また届先のない荷物のやうに寂しく田端へかへることがある。

 それまでの路面電車と違う山手線のような電車が目新しかったのかもしれない。
 『国鉄電車発達史』(1959・電気車研究会)を見ると、作品が書かれた大正の中頃は東京〜上野間が開通する前で、1919(大正8)年3月より、中央線・東京〜万世橋間の開通に併せ、上野〜池袋〜新宿〜品川〜東京〜新宿〜中野といったルートで中央線に乗り入れる「の」の字運転が始まっている。当時はポールがパンタグラフに、バッファーつきのスクリューカプラーが自動連結器に変わる過渡期でもあった。
 犀星は「それらの木立や林を透して/かろがろとはしる山の手の電車」(「郊外」)、「十五分ごとに通る山の手の電車は/春にはいつてから/羽のあるもののやうに軽く軽く馳つてゐた」(「散歩」)など、詩のなかにもよく山手線を登場させている。
 『星より来れる者』(1922・大鐙閣)所収の「土手」と題する詩では、そんな山手線の切通しが描かれる。

「土手」
田端の奥にガードがある
そこのふた側になつてゐる土手が
このごろ真青になつて深い草むらをつくつた

あさはきつと歩きにゆく
仕事にくたびれた午後も
晩食の済んだあとでも歩く

ふしぎに晩は向つ側の土手が、
くらみをもつてどつしりと臥てゐる
こちらの土手も長く暗く
深い谷間を想像させる
向う側の人家の屋根、
屋根をかこむ樹、
樹にちらつく美しい星、
そして緑から吹き出たやうな
そよそよした爽やかな風がからだをなでる

ときどき隙間には山の手の電車が通る
あかるい窓、
ちらつく白いきもの、
女の乗客のふくれた膝、
シグナルが一つ、青く震へてゐる

どんなに疲れたときでも
この土手にくるとさつぱりする
誰も晩はあるかない
風ばかりが囁く--。

 切通しを抜けてゆく郊外電車風の山手線。この頃は編成もまだ2〜3両だった。
 詩にでてくる田端の奥のガードは、かつて山手線の田端〜駒込間の切通しにあった道灌山隧道と思われる。トンネルがあったのは現在の富士見橋のあたりで、今もその遺構を見ることができる。
 同時代の犀星の詩には、山手線のほかにも「街の四辻ではみな集まつてくる/古い小さい車体、あたらしいボギー車」といった、東京市電と思しき電車を題材とした「電車の世界」(『寂しき都会』)がある。また「都会の川」(『星より来れる者』)も、添景ながら市電風の電車が印象的な作品だ。

「都会の川」
雨は静かに降りそそいでゐる
川の上は森として
こまかい音を立ててゐる
をりをり電車がどんよりした上に影をうつしてはゆく
幾艘となく荷足船がつながれてゐる

船は動いてゐるやうで
そのままつながれて
雨にうたれてゐる
屋根庇から烟がひとすぢ上つてゐる
窓から橋の上の電車を一人の子供が
いつまでも熱心にながめてゐる

往来の人かげもみな水のうえにうつつては
しづかに消えてゆく
烟はやはり上つてゐる
子供の母おやらしい女が
ひと束の青い葱を洗つてゐる
総てがしんとした雨中で橋のかげになつてゐるのである

 そぼ降る雨のなか、川面に影を映して通り過ぎる電車のスタイルは、ポールのついたモニタールーフに開放デッキだろう。場所は隅田川の畔か、あるいはもっと小さな堀端か。その情景は川瀬巴水の木版画を思わせる。

*掲載詩の出典:『室生犀星全集』2(1965・新潮社)

吾妻軌道の馬頭観音

馬車鉄道の馬たちの慰霊碑

 ラフカディオ・ハーンの『日本瞥見記』(1894)のなかに馬頭観音の話がある。ハーンは路傍の祠に見つけたその観音像が家畜の馬を供養するものと知って、日本の農民の優しさに心を打たれた。
 馬の頭の冠を頂いた馬頭観音は、もともと馬が蹴散らすような力で煩悩を取り払うという菩薩だったのだが、日本の民間信仰では馬の守り神となった。「草枯や馬頭庚申六地蔵」(雀庵)と、江戸時代の俳句にも詠まれたように、庚申塔や六地蔵と並んで、かつては路傍などによく見られた石仏だった。
 栗田直次郎・片山寛明の『馬と石造馬頭観音』(2000・神奈川新聞社)によると、馬車鉄道の使役馬を供養した馬頭観音も建てられたという。
 群馬県中之条町の林昌寺に残るそれは、吾妻軌道によるものだ。渋川から中之条まで、吾妻川沿いの街道を走った全長20.8キロの吾妻軌道は、1912(明治45)年に馬車鉄道として開業。1920(大正9)年には花巻電鉄を参考に、馬鉄時代の軌間(762ミリ)のまま電化したが、やがてバスに客を取られ、1934(昭和9)年に廃止となった。ほぼ同じ区間を走るJR吾妻線(旧・国鉄長野原線)が開業したのは軌道の廃止後、終戦の年の1945(昭和20)年だった。

 中之条の林昌寺を訪ねてみると、お目当ての馬頭観音は境内になく、山門の外れの小さな岩山に、いくつかの石仏と一緒に立っていた。「馬頭観世音」と名号を刻んだ文字塔で、上部には可愛らしい馬の絵、名号の傍には「大正六年十一月吉日」「吾妻軌道株式会社本社詰 車掌運転手馬丁一同」とある。現場の人たちによって建てられたというのがいい。
 ちなみに『渋川市誌』第3巻(1991)によると、この馬頭観音建立の4年前、1913(大正2)年には、客車25両、貨車26両に対して馬49頭が飼われていた。

中之条の林昌寺に残る
吾妻軌道の使役馬を供養した馬頭観音

かつて吾妻軌道の中之条駅があった
林昌寺山門前の通り

 林昌寺山門前の通りには吾妻軌道の本社と終点の中之条駅があった。中之条町の市街は、この通りを少し登った先なのだが、馬車鉄道では勾配がきつかったのかもしれない。電化後に延長する計画もあったようだが実現しなかった。
 その街中には旧・吾妻第三小学校を利用した歴史と民俗の博物館「ミュゼ」がある。校舎は1885(明治18)年築の立派な洋風建築。中之条は吾妻地方の中心として、古くから栄えていたのだろう。吾妻軌道が走っていた頃は、四万や沢渡、川原湯などの温泉へ行く乗合馬車の起点でもあった。
 博物館の「ミュゼ」には「吾妻馬車鉄道申請書」や馬鉄時代、電車時代の吾妻軌道の写真が展示されていた。

明治初期の洋風建築を利用した
歴史と民俗の博物館「ミュゼ」

 『馬と石造馬頭観音』では、山梨馬車鉄道が建立した馬頭観音も紹介している。山梨県甲府市の一蓮寺に残るその観音像は、馬頭を頂いたお顔も馬面(面長)だ。こうした馬車鉄道の馬頭観音は、ネットで調べてみると、他にもまだ存在するようである。

尾崎士郎の「ガソリン・カー」

昭和初期の東京近郊私鉄めぐり

 「人生劇場」で有名な作家、尾崎士郎(1898-1964)による「ガソリン・カー」と題した紀行文がある。以前にも紹介した雑誌「旅」の1939(昭和14)年4月号に掲載されたもので、尾崎士郎らが東京近郊のローカル私鉄に乗って物見遊山に出かける。そこには非電化時代の流山鉄道(現・流鉄)や神中鉄道(現・相鉄)などが描写されている。

 ガソリンカーといふものは、何か春めいた乗物である。おそろしく尻の軽い、飄々たる感じが面白い。ガソリンカーなどのあるところは、大抵近年までは、旧式な頭大(あたまで)ツかちの機関車に曵つぱられた軽便鉄道といふやうなものであつたに違ひないから、先づそれらを脱皮した明るい車体などが何よりも軽快な感じを与へるのであらう。
 常磐線の馬橋から流山へ行く線がそれである。あの辺は一帯に土地が低く明るく、際限なくひろがるげんげ田で、何やら夢のやうに霞むまつたくの春の野である。その中へふらふらと迷ひ込んで行くやうなガソリンカーはたしかに現実ばなれのした羽化登仙的なものである。

 冒頭で尾崎士郎はガソリンカーを「春めいた乗物」と表現している。これは4月号の掲載で“お題”が「陽春随筆」だったため、無理にこじつけたようにもとれるが、ガソリンカーが「尻の軽い、飄々たる」というのは分かる感じがする。それまでの蒸気機関車と違う、気動車の軽快さをうまく言い表している。
 続いて紹介される流山鉄道のガソリンカーは「羽化登仙的」という。羽化登仙とは羽の生えた仙人となって天に昇ること。快い気分の喩えでもある。桃源郷のような風景の中を走るのが天にも昇る心地だったのだろうか。そんな沿線も今日ではすっかり住宅地に変わってしまった。
 当時のキハ31が付随車化された姿で流山市総合運動公園に保存されている。「ガソリン・カー」が書かれた頃の流山鉄道は、これともう1輌のキハ32のみで旅客輸送を行っていた。もしかしたら、この車輌に尾崎士郎が乗っているかもしれない。
 尾崎士郎ら一行は流山駅に着くと、駅の案内板で見つけた、講談や歌舞伎で知られる義賊、金子市之丞と三千歳の墓を詣でる。この墓は今も流山根郷の閻魔堂の境内にある。
 流山は「たゞ一軒のカフエーが白けてゐるばかり」のひっそりとした町だった。一行は「古着屋」と称する妙な屋号の酒屋で酒を瓶に詰めてもらうと、江戸川の堤にでて酒宴を開いた。

流山市総合運動公園に保存される
流山鉄道キハ31尾崎士郎らが酒宴を催した江戸川の堤

 立川から五日市へ行くのもガソリンカーである。これにも春のリズムがあつた。網代といふ秋川の崖の上にある鉱泉宿へ行つたことがある。この辺はおそらく軽便鉄道の時代であつたなら、遥けくも来つるかなの感がある山陬(さんすう)であつたらうが、今ではガソリンカーの軽快さが、ぐつと都会に近いものにしてしまつたやうだ。

 五日市鉄道(現・JR五日市線)のガソリンカーには「春のリズム」があったという。「山陬」とはまた難しい言葉だが片田舎のこと。なお、この鉄道が、いわゆる軽便鉄道(ナローゲージ)だったことはない。

 ガソリンカーの中でたゞ一つ、風変りなのは神中鉄道といふ線であらう。此の奇体な線は横浜から厚木へ通ふものである。こゝは、添田さつき等がやつてゐる「三味会」といふ東京近郊を歩く会があつて、それに引つぱり出されてはじめて知つたのだが、大体此の三味会は凡そヘンな風景や味覚ばかりを探つてゐる“げて旅”の会であつて、これに誘はれなかつたなら、私の如き、到底かゝる鉄道に乗り合はせることはなかつたであらう。
 星川、西谷、二俣川などいふ処を通つて、東相模の丘陵を走る此のガソリンカーは、まるで酔ひどれのやうに体をゆすぶつて、烈しい叫び声を立てるのである。それだけに面白いといへば面白いがかうして厚木まで、遥々(はるばる)揺すられて行くのは並大抵のことではなからう。
 しかし此のあたりの落ちつき古びた風色は素晴しいもので、景勝として一向に顧みられないところに、ありふれた、ありのまゝの山河がかへつて生き生きと、新鮮な感じで迫つて来るのは面白いことである。

 五日市鉄道を前置きとして神中鉄道が紹介される。文中にでてくる添田さつきとは演歌師の草分け、添田唖蝉坊の長男、知道の芸名。知道は大正時代に流行した「東京節」(「パイノパイノパイ」)などで知られる演歌師兼作家で、尾崎士郎は、彼らの「三味会」という“げて旅”の会に参加していなかったら、神中鉄道のような「風変り」で「奇体」な鉄道など、乗ることはなかったろうといっている。戦後、沿線の宅地開発で急成長を遂げ、今や大手私鉄の一員となった相鉄も、神中鉄道と呼ばれていた時代には草深いローカル線だった。
 それにしても「酔ひどれのやうに体をゆすぶつて、烈しい叫び声を立てる」ガソリンカーとは、いったいどんな車輌だったのか。湯口徹氏の『内燃動車発達史』上巻(2004・ネコ・パブリッシング)によれば、随筆が掲載される3年前の1936(昭和11)年以降、神中鉄道には既にキハ30形、40形といったボギーのディーゼルカーが導入されていた(ちなみに随筆掲載の翌月、1939年5月には、流線型の斬新なスタイルをした東横電鉄キハ1形を譲受)。ここに登場する車輌は、それらより前に製造された2軸車の初代キハ1形かキハ10形、あるいは2軸客車に自社工場でエンジンを載せたキハ20形だろう。
 なお、当時の2軸車のうちキハ10が、付随車となった後、三岐鉄道、別府鉄道を経て、現在、播磨町郷土資料館に保存されている。
 車窓の風景を眺めているうちに、その辺りを歩いてみたくなった「三味会」の一行は、途中の二俣川駅で下車すると、村役場の近くに見つけた雑貨屋の縁台で、また宴会を始める。といっても田舎の雑貨屋に肴になるようなものがあるはずもなく、紅生姜をつまみながら、1本しかないビールと水っぽい地酒を呑むことになる。
 二俣川駅の周辺も、最近は再開発で随分と変わってしまったが、駅から少し離れた旧街道には、いくらか往時の面影が残っている。かつて村役場があった辺りの川沿いには、昔ながらのたばこ屋が1軒。尾崎士郎らが立ち寄った雑貨屋を思わせる。
 一行は再び神中鉄道に乗り、さらに大和方面へ向かった。

 神中線は此のあたりまで、丘の起伏に従つて或は切通しの芒のトンネルに入り或は桑畑とすれ/\に走つたが、次第に広々とひらけて来るのは相模河原に近づく為であらう。大和といふところへ来ると小田急の線と交叉するが、こゝから望んだ富士箱根、大山丹沢の山塊が空を切る鮮かさは強い印象となつた。

別府鉄道ハフ5として現役だった頃の
旧・神中鉄道キハ10(別府港・1984年1月)

尾崎士郎らが訪れた二俣川の旧街道に残る
昔ながらのたばこ屋

 尾崎士郎は1937(昭和12)年に始まった日中戦争の従軍記者として2度、戦地に赴いた。この随筆の最後には、そんな中国での体験も綴られている。荒廃した中を軽快に走るガソリンカーは「白昼夢」を思わせ、「凡そ戦争とはかけはなれた旅行気分」だったと、なんとも暢気だ。
 ちなみに「ガソリン・カー」が掲載された頃は、既に戦争の影響で石油消費の規制が行われていた。

“五人づれ”が見た石油発動車

「五足の靴」に描かれた満島馬車鉄道と佐賀軌道


歌人・詩人の与謝野寛・北原白秋・平野萬里・木下杢太郎・吉井勇が “五人づれ”の署名で執筆した「五足の靴」という紀行文がある。
 1907(明治40)年の夏、北原白秋が生まれた柳川をはじめ、九州の北西部を“五人づれ”が巡った旅日記なのだが、このなかの「領巾振山(ひれふるやま)」に、満島馬車鉄道の石油発動車が詳しく描写されている。

 唐津近松寺(きんしょうじ)を出でて鉄道馬車に乗る、正面を見て来た来たといふと中途で馬を外した、何事ならむと思へば遥か向ふの方から煙を吐いて来るものがある。今機関車が来るのださうだ。紫の烟をぱつぱつと断続的に吐きながらがたぴしやとやツて来たのを見るとぺらぺらの鉄の函だ、極くプリミチーヴな玩具(おもちや)の様な石油機関車である。機関車が止まると五六人で客車を押して結び付ける。ぼーと一時に濛々たる烟を上げて車が動き出す、その前にぶるぶると馬の様に震へたには一同舌を巻いて驚いた、客車に向へる薄い板の壁に穴が明いてる。化物の口である。三人の火夫が面白がつて石油をたく、その香(にほひ)が遠慮なく客車を見舞ふ。美しい虹の松原を珍しい汚い黒い動物が息ざし荒く腹の中に人間を数(す)十人容(い)れて走つてゆくのである。二軒茶屋で降りる。列車も暫時(ざんじ)休憩する、手桶の水を逆(さかしま)にして熱く焼けた釜の上へぶちまけるとじゆうつと音がして白煙が立ち登る、烟突の中へまで打つた、そのプリミチーヴなこと驚くべきものがある、

 佐賀県唐津の満島馬車鉄道(後の唐津軌道)は1900(明治33)年に開業、1930(昭和5)年に廃止された。軌間は1067ミリだったが車輌は軽便と変わらず、名勝の虹の松原に沿ってのんびりと走る軌道だった。
 福岡鉄工所製の石油発動車が導入されたのは、湯口徹氏の『石油発動機関車』(2009・ネコ・パブリッシング)によると1907(明治40)年。“五人づれ”が訪れたのと同じ年だ。
 「五足の靴」は、当時最新式だった石油発動車の印象を記した貴重な記録となっているが、ポンポン船と同じ焼玉機関を載せたその機関車は、当時から見ても珍奇なものだったのだろう。「プリミチーヴな玩具」「汚い黒い動物」と酷評されている。
 石油発動車といえば、牧野俊介氏が1940(昭和15)年に廃止直前の南筑軌道で遭遇し、そのゲテっぷりに驚嘆した文章を『自転車に抜かれたコッペルたち』(1980・プレス・アイゼンバーン)などに綴っているが、機関車が造られた当初も昭和10年代と変わらない印象だったのが分かる。

 ところで、「五足の靴」の「雨の日」と題した章には、佐賀軌道の馬車もでてくる。

暫くして筑後川に達した。雨は愈(いよいよ)降る。
 濁れる河を渡ると佐賀迄鉄道馬車がある。乗る。よく見ると品川と新橋との間を通つてよく脱線したそれの御古(おふる)であつた、紋章がその儘残つて居る。I生が学校の行き返りに乗つた馬車である。

 思ひきや、筑紫のはてに
 品川の馬車を見むとは。

 旧知に会ふ感がした。馬も同じ馬かも知れぬ。ひどく鈍(のろ)い。

 I生とは吉井勇のこと。1904(明治37)年に開業、1937(昭和12)年に廃止された佐賀軌道は、ここに書かれた通り“御古”を使っていたようで、「さがの歴史・文化お宝帳」というサイトにも「品川馬車鉄道会社の使用していた軌条、車輌、馬具など一切を購入」とある。
 ちなみに品川馬車鉄道は1897(明治30)年に開業。東京馬車鉄道に吸収合併された後、1903(明治36)年に電化されて東京電車鉄道となった。馬車鉄道時代の軌間は特殊な737ミリで、佐賀軌道でもそれを踏襲したものと思われる。

 なお、「五足の靴」は岩波書店より文庫化。同出版社の『白秋全集』第19巻(1985)にも収録されている。