田宮虎彦と花巻電鉄と

みちのく温泉電車紀行[2]

 新藤兼人監督による1956(昭和31)年製作の映画『銀(しろがね)心中』は、冬の鉛温泉が舞台で、当時、花巻-西鉛温泉間を走っていた花巻電鉄鉛線の名物、車幅の狭い“馬面電車”が名脇役を演じている。
 映画は道ならぬ恋の悲劇。夫の戦死を告げられた佐喜枝(乙羽信子)が青年の珠太郎(長門裕之)と恋仲になるが、戦後、亡くなったはずの夫が戻ってからも珠太郎への想いを断ち切れず、その後を追いかける。しかし、辿り着いた先で珠太郎に拒まれ、絶望した佐喜枝は命を絶ってしまう。
 珠太郎が暮らす温泉へ佐喜枝が向うシーンで、雪の中を走る馬面電車や車内風景がでてくるほか、佐喜枝に追われた珠太郎が電車に飛び乗るシーンや、吹雪で止まった電車の前を佐喜枝が歩くシーンにも馬面電車が登場する。
 1969(昭和44)年まで営業を続けた花巻電鉄鉛線だが、1960年代初めには車輛の新造などで、旧型の馬面電車は予備車になってしまう。映画の撮影された頃が、最後の佳き時代といえるだろう。

 原作は田宮虎彦(1911-1988)による同名の小説。1952(昭和27)年の作品で、田宮は舞台となる鉛温泉の、日本一深い岩風呂で有名な藤三旅館に逗留して、この小説を執筆したという。

 鷹巻の温泉から、東北山脈の山ふところに湯量の豊富な温泉が点在している。鷹巻の駅から小さなおもちゃのような電車が通じていて、小沢温泉、檜岐平温泉、西檜岐平温泉、そして終点の、もう嶮しい山々が折り重なるように両側から迫った一番奥にしろがね温泉があるのだった。

 花巻は鷹巻といったように地名が仮名になっている。

 その切なさに堪えきれなくなって汽車にのった。そして、寒々と空に凍りついているような山肌を、小さな電車の中から一人みた。

 珠太郎を追って佐喜枝が温泉に向うくだりである。
 しかし、花巻電鉄と思しき電車が登場するのはこれくらいで、映画と較べるともの足りない。
 そのかわり、映画化された1956年の『旅』(日本交通公社)11月号に、花巻電鉄の馬面電車を詳しく紹介した紀行文を載せている。「小説「銀心中」の舞台 -作者がみた鉛温泉の旅情」といったタイトルで、これがなかなか趣深い。

 花巻電鉄などというと、いかにもいかめしく聞えるけれども、東北本線花巻の駅から鉛温泉まで私たちを乗せていつてくれるあのはゞのせまい小さな電車は、妙に切なく旅情をさそう。坐席に腰かけると、むかいあつて腰をかけた人と膝小僧をつきあわす。どちらかが膝をよぢらせてよけなければ、たがいちがいに膝小僧をくみあわせるようになる。電車の車体のはゞが、それほどせまいのだ。二輌連結して走つてゆくのだが、レールのとぎれめとぎれめにガタンガタンと車体を前後にあふつて、ぎこちなく山間を登つてゆく。この電車のことを、つがいのキリギリスに似ているといつた人があるが、やせたキリギリスとこの電車との組みあわせは、まことにたくみな表現である。詩的であるとさえ思われる。
 鉛温泉は、東北本線花巻の駅から、その電車で、花巻温泉とは逆な方向に、小一時間ゆられて行きつく終点にある。
(略)
 花巻の山うしろの幾つかの温泉は、(略)庶民の湯治場である。それは、ちようど、花巻電鉄の、あのはゞのせまい小さな電車のように、華美という言葉とは縁遠い。しかし、なつかしく切ない旅情の思い出を、一度そこに遊んだ人の心に、いつまでも残す。
 花巻から、はゞのせまい小さな電車に、しばらくゆられてゆくうちに、秋のこの頃なら、車窓は山の紅葉をうつくしくうつしはじめるだろう。その紅葉にうづまつて、温泉宿がひつそりと息づいている。私も、もう一度、いつてみたいと思う。

 誰が名づけたのか“つがいのキリギリス”とは妙な表現だが、なんとなく分かる感じもする。

 ちなみに映画の『銀心中』は、川本三郎氏の著作を読んでその存在を知った。氏の『日本映画を歩く』(JTB・1998)では、「銀心中」のほかにも、軽便鉄道、ナローゲージが登場する映画として、『挽歌』(北海道の殖民軌道)、『飢餓海峡』(川内森林鉄道)などを紹介している。


『旅』(日本交通公社)1956(昭和31)年11月号

機関車に巣喰う

廃車体を舞台とした龍膽寺雄のメルヘン

 昭和初期のモダニズム文学を代表する作家、龍膽寺雄(1901-1992)の作品に「機関車に巣喰う」(1930)という奇妙な小説がある。廃車となった客車ならぬ機関車を住み処とする話で、舞台は20年の歳月をかけ、作品の発表と同年の1930(昭和5)年に竣工した荒川放水路(現在の荒川)。その河原に放置された工事用の蒸気機関車に、田舎から駆け落ちしてきた10代半ばの男女が暮らしている。

 俺等(おいら)の住まひを打開けようか。土手の腹に傾(かし)いで錆びついてる泥汽車の機関車さ。放水路の大堤防へ昔さんざんぱら泥を曳いて来て、今ぢや線路も雑草に埋もれて、漏斗の様な旧式な煙突には鳥の糞が白い縞を描き、汽鑵の鼻づらからは蓋扉(ふた)が落ツこつて、煤けた闇をポカンと円く覗かせ、錆びたピストンの背中を昼間はチョロチョロと蜥蜴が匐つて居る。

 二人がねぐらにしているのはキャブの床ではなく火室の中。そこへ鳥の巣のように枯草を積み、古毛布を敷いている。焚口が小さいため、最近、成長してお尻が膨れてきた彼女が、出入りできなくなるのではと心配している。
 主人公の少年は、新聞に紹介されたこともあるほどの発明好きで、川向こうに臨む江東の工場街に小さな工場を持って、自分の考案した“自動蚤取器”や“雨傘を畳み込んだシャッポ”を作るのが夢だ。そんな彼に寄り添う瑁(まい)という名の少女は、放水路を通る「スワン」と名付けた白いモーターボートに憧れている。
 小説は、機関車の上へ登った二人が、明け方の躍動する工場街に心を弾ませるシーンで終わる。

 江東の工場街は汽笛の交響楽であけがたを眼ざませる。露ばんだ空にはクリスマスの飾りの様に幾つもまだ星が光つてゐるのに、壮大な橙色が地球の片側から拡がつて、運河の向うの工場街はくツきりと明暗に彩られる。宏壮な工場建築、倉庫、埃ツぽいスレエト屋根、煤けたコンクリートの壁、煉瓦の小さな窓、錆びた巨大なガスタンク、高い水槽、白い碍子をキラキラとさげた送電鉄塔。
 煙突、
 煙突、
 煙突。
 白い湯気の塊がそここゝから空間へ吹ツ切られて、地球はまさに階調ある汽笛の交響楽だ!

 未来派的な工場の描写が、いかにもモダニストの作者らしい。

 二人がいた放水路の畔は、貨物列車が走る鉄橋の近く、川向こうに、今はなき千住火力発電所の四本煙突が望まれるとあるから、常磐線や東武鉄道が通る小菅辺りだろうか。
 この周辺の風景を描いた「大東京十二景 九月・荒川放水路の秋色」という藤森静雄の版画がある。小説とほぼ同年代の1934(昭和9)年作で、河原の遠景に鉄道のトラス橋や、煙をたなびかせて林立する工場の煙突が描かれている。
 機関車に関しては、臼井茂信『機関車の系譜図2』(交友社・1973)の「河原のジプシー」と題した章に、荒川放水路の工事で使われた“泥汽車”が紹介されている。機関車はドイツのボルジッヒ製の20トンCタンクなどで、軌間は1067ミリだった。
 しかし、このサイズの機関車では、小説のような10代半ばの二人が火室に入るのは無理だ。おそらく本線で使われているような機関車の、大きな火室をイメージして書いたのだろう。
 ちなみに自伝の『下妻の追憶』(日月書店・1978)によると、龍膽寺雄は中学生の頃、郷里の下妻を走っていた常総鉄道(現在の関東鉄道常総線)を見て汽車好きになり、一時期は機関車の絵ばかり描いていたという。放水路の“泥汽車”も、そんなことから存在を知ったのかもしれない。

(資料協力:半田亜津志氏)

*引用の出典は「機関車に巣喰う」所収の単行本『放浪時代』(改造社・1930)。


龍膽寺雄の本との出会い

 私が龍膽寺雄を初めて読んだのは、高校生だった1970年代の半ば頃。その当時、ほとんど忘れられていた(今も知る人ぞ知るだが)この作家の、手に入れることができた数少ない一冊、『風-に関するEpisode』(奢霸都館・1976)だった。
 作品の初出は1932(昭和7)年。前述の「機関車に巣喰う」にも似た廃屋の木馬館を舞台とした港町のメルヘンで、この小説をきっかけに、私は文学をはじめ、美術や建築など、さまざまな分野の昭和モダニズムに関心を抱くようになった。
 『風-に関するEpisode』は、生田耕作が主宰していたプライベート・プレス、奢霸都館からの刊行で、デ・キリコの絵を表紙に用いたフランス装の装幀が洒落ていた。
 その本は、横浜東口の初代スカイビル(最上階が回転レストランだった)にあった書肆山田で入手した。詩集を刊行する書肆山田が、当時は書店も兼業していたのだった。

 「機関車に巣喰う」の存在は、それから2、3年して、NHK-FMの「クロスオーバー・イレブン」という番組で知った。語り手の石橋蓮司が、この知られざる小説に触れたのだが、それもそのはず、番組の最後に「スクリプトは佐々木桔梗でした」とナレーションが入った。汽車好きで稀覯本の蒐集家としても知られる氏が台本を書いていたのである。
 番組で「機関車に巣喰う」のシチュエーションを聞いた私は、佐々木桔梗が著した『E くろがねの馬の物語』(プレス・アイゼンバーン・1970)に載っている入間川に打ち捨てられた鉄道連隊のEタンクを、その小説の情景のように思い浮かべた。
 私が実際に「機関車に巣喰う」を読むことができたのは1980年代に入ってからである。海野弘が『モダン都市東京 日本の一九二〇年代』(中央公論社・1983)で龍膽寺雄を取り上げるなど、この頃になって昭和初期のモダニズム文学を再評価する気運が高まり、ようやく、その作品を収めた全集(龍膽寺雄全集刊行会・1984-1986)が刊行されたのだった。
高校時代に私が初めて読んだ龍膽寺雄の本『風-に関するEpisode』と、同じ頃に、初めてファンレターというものを書き、不躾にも色紙を同封してお願いしたサイン。「美貌は天才の一つだと私は理解する」と書かれている。「機関車に巣喰う」を知ったのはその後で、再度、手紙を書き、荒川放水路の機関車を実際に見たのか訊かなかったことが悔やまれる。

〈追記〉
 戦後、埋もれていた龍膽寺雄を初めて取り上げたのは、『えろちか』(三崎書房)というあやしげな文芸誌の1970(昭和45)年4月号だった。最近入手したその雑誌を見ると、「龍膽寺雄 EROTICS 傑作選」と題して(“EROTICS”というような官能小説ではないのだが)、「機関車に巣喰う」ほか、「風-に関するEpisode」など、昭和初期の作品を掲載している。
 川本三郎氏はこの特集号で龍膽寺雄を知ったという。掲載作のなかでも特に惹かれたのが「機関車に巣喰う」だったそうで、『東京残影』(日本文芸社・1992)によると、雑誌を手にした当時、週刊誌の記者として、廃止になった都電の車庫に住むヒッピーたちを取材していたことから、作品に親しみを覚えたという。
 氏はその後、編集に携わった全集の「モダン都市文学」3巻『都市の周縁』(平凡社・1990)や「日本文学100年の名作」2巻『幸福の持参者』(新潮社・2014)に「機関車に巣喰う」を収録している。

丸ノ内線の詩集

朝倉勇『詩集 神田川を地下鉄丸の内線電車が渡るとき』

 地下鉄丸ノ内線には、茗荷谷-後楽園、御茶ノ水-淡路町、四ツ谷と、地上を走る区間が存在する。なかでも御茶ノ水駅をでてすぐ、神田川を渡り、総武・中央線の下をくぐる区間は、わずかな距離ながら立体交差が面白く、昔の絵本や図鑑によく描かれた。
 先日見つけた朝倉勇の『詩集 神田川を地下鉄丸の内線電車が渡るとき』(誠文堂新光社・1983)は、そんな御茶ノ水の地上区間を題材とした詩集である。丸ノ内線で通勤する途中、その地上にでる数秒間の印象を、約1年に亘って記した日記のような作品で、着想が現代アートを思わせる。

十一月二十五日 火曜日 快晴 九時五十分 左
三階建てと思った左岸の木造建ては
四階建てであった
きのう列島を襲った寒気団に日本の空は洗われた
透明な光があふれている
川に反射した光が
岸と建物にも下から明るさをおくっている
(略)

 神田川の左岸に見える三階建てと思っていた木造の建物が、後日見たら四階建てであったとか、電車の正面からは神田川が見えないなどといったことが日々記されていく。

三月十六日 火曜日
地下鉄電車が神田川鉄橋を渡る時間を計ってみた
渡りはじめから終りまで
ざっと七秒である
(ただし僕が乗っているのは前から二輛目)
右の窓に川の全景が見えるのは
その半分くらいか
そのくらいの時間になにがみえるか
僕のメモはその実験をしていることにもなる

九月二十一日 火曜日 くもり 九時四十九分
橋の上で地下鉄電車同士のすれちがい
池袋行き電車の走る窓を通じて
国鉄総武線電車の黄色が逆方角に動いている

動く赤の中の動く黄色
橋を渡り切るちょっと前で
すれちがいは終り
くもり日の川がみえた
(略)

 記されたのは、1975年10月31日から1976年11月17日までで、丸ノ内線は営団、総武線は国鉄、ともにアルミの電車ではなく、赤や黄色に塗られていた時代だった。


 ちなみに私も、かつて丸ノ内線で通勤していた時期があり、赤い電車には思い入れがある。
 本の紹介のついでに、その500形引退時のメトロカードと硬券を紹介しておこう。メトロカードは詩集と同じ御茶ノ水の地上区間、硬券の方は雪の四ッ谷駅の写真がついているが、この新宿駅発行の硬券セットは手作りで、写真はサービス判のプリント、台紙はコピー刷り。別紙で作ったサインカーブの白い帯を貼っているのが微笑ましい。


揖斐の夏

キャプションの詩

 小学生の頃、よくでかけていた伯母の家の近くに古本屋があって、そこに“中綴じ”の古い60年代の『鉄道ファン』が積まれていた。古いといっても1970年代初頭の話だから、数年前のバックナンバーだったのだが、少年の時分にはえらく昔のもののように思われた。
 当時から旧型の車輛に興味があった私は、その『鉄道ファン』を数冊まとめて買うと、飽かずに眺めては、お気に入りの記事のフレーズを繰り返し読んだ。こうした読書の思い出は私だけではないだろう。

 『鉄道ファン』No.49(1965.7)掲載の白井良和氏による「名古屋鉄道支線めぐり」もその一つで、単車2輛を一つに繋いで連接車化したモ401の写真も魅力的だったが、私はそこに記された詩のようなキャプションに魅了されてしまった。

揖斐の夏 その1 名鉄谷汲線 谷汲-結城 モ161+モ186 1962年5月
緑したたる雑木林の間をぬって、
名鉄の古強者が岐阜忠節へと下って行く。
樹海に響くタイフォンの音に、
騒々しかった蝉しぐれも一瞬とぎれ、
しばらくは梢にそよぐ葉ずれの音と、
せわしげなジョイントの音の天下となる。

揖斐の夏 その2 名鉄揖斐線 星野-中之元 モ401
揖斐の里の夏は暑い。
フナやメダカを追う童たちが家路につくころ、
単車のハコを二つつないだインスタント連接車が、
車体一杯に斜陽を浴びてトコトコとやって来た。
本揖斐に向かうわずかの客を乗せて……

 試しにキャプションを句読点で改行してみたが、殆ど詩になっている。「その1」の写真は5月の撮影で“蝉しぐれ”には早過ぎるが、強い日差しが真夏を感じさせる。おそらく7月号の掲載に合わせて、キャプションを夏向きに創作したのだろう。白井氏か、それとも編集者によるものか。昔の趣味人はなかなか詩才があった。

愛知県の岡崎市南公園に保存される名鉄モ401
(2007年8月)