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港街のトラムの詩

竹中郁と野村英夫

 稲垣足穂と並ぶ神戸のモダニズム詩人、竹中郁(1904-1982)。最初の詩集となる『黄蜂と花粉』(1926・海港詩人倶楽部)の巻頭を飾るのは、市電の撒水車をモチーフとした作品だ。

「撒水電車」
この移動噴水は
懶い午睡(ナツプ)をさましてゆく

見よ!
颯爽と
街路(まち)の篠懸樹(プラタン)は整列した

 かつて、路面電車の撒水車による水撒きは、都会の夏の風物詩だった。
 「鉄道ファン」(1971.4)掲載の宮崎光雄「神戸市電車両史」によれば、1922(大正11)年、12両あった撒水車の5両が廃車され、その台車、電気部品がF車(後の400形)に使用されたとあるから、詩が発表された1925(大正14)年には、神戸市電に7両の撒水車が在籍していたようだ。5両の廃車は舗装道路が増えたことによるものか。ちなみに日本初のアスファルト舗装は1913(大正2)年、神戸の元町通りだという。
 プラタンとはプラタナス、スズカケのことで、詩の発表される1年前、神戸市電の沿線にプラタナスや銀杏を植える計画が「大阪朝日新聞」に載っている。プラタナスは当時、西洋の街を彷彿とさせるモダンな樹木だった。
 夏の風物詩といえば、アイスクリームもその一つ。『黄蜂と花粉』には「氷菓」という詩も収められている。鉄道とは関係ないが、「撒水電車」と同様に軽やかでモダンな佳作なので、ついでに紹介しておこう。

「氷菓(アイスクリーム)」
こんな冷たい接吻(ベゼ)があるものか
それにうつかりしてゐると
対手(あひて)は夢のやうにとけてしまふ
はかない恋の一時(ひととき)だ!

 第二詩集の『枝の祝日』(1928・海港詩人倶楽部)にも市電の詩が載っている。

「街角」
電車の曲折(カーブ)する音が
店の飾窓(シヨウウインドウ)にびりりとひびく

映つてゐる日傘(パラソル)の女が
身体中(からだぢゆう)でしばらく笑つた

 車輪とレールの擦れる音、スキール音が窓ガラスに響く。そこに映った女性の姿が震えて、笑っているように見えたのか。日傘とあるので、これも夏の詩。

 もう一つ、神戸と思しき街の路面電車を題材とした詩を紹介しよう。堀辰雄に師事し、31歳で夭折した詩人、野村英夫(1917-1948)の作品だ。

「初めての蝶」
水色の市街電車が
走つて来た。
水色の市街電車は
蝶のやうに停つた。
亜麻色の髪毛の少女が
唯一人窓に凭れてゐた。
水色の市街電車は
走つて行つた。
緑色に芽生えた
街路樹の間を
まるで蝶のやうに。
人は誰れもゐなかつた。
四月は何処にもあつた。
さうして初めての蝶は
軽さうに飛んでゐた。

 市電を蝶に喩えたこの詩は、野村英夫が亡くなる1948(昭和23)年11月の2か月前に発表された小説「春は薄緑の服を着て」の冒頭にでてくる。
 神戸市電に水色の電車など走ったことはないが、小説の文中に「K……市」とあり、また、その描写からも神戸をイメージしたものと思われる。

 山手下通りの教会の前で厚夫は市街電車から身軽に降りた。四月始め頃の日曜日の午後だつた。山手から市街地を通つて波止場にかけて、空には灰色がかつた軽い雲が浮んでゐた。日曜日で、しかも午後のせゐか、教会の前にも、舗装道路の西側に並んだ商館や、左手の市庁の建物の前にも、殆ど人影らしいものが見当らなかつた。〈略〉

 栄光教会や兵庫県庁(現・兵庫県公館)が並ぶ、昔、神戸市電が走っていた下山手四丁目あたりのようだ。

〈略〉次の市街電車がやがて彼を追ひ越して行つた。水色に塗られた市街電車は、薄緑色に芽生えた街路樹の間を、ガタンガタンと如何にも軽さうに走つて行つた。一人の亜麻色の髪の少女が、窓からぼんやりと波止場の方を見てゐるのが見えた。

 主人公の厚夫はその光景を見て、ラウル・デュフィの絵を連想する。
 水色の市電は野村英夫の創作か、それともなにかモデルがあったのか。
 1940(昭和15)年の東京オリンピック開催に向けて、東京市電にクリームと水色のツートン、窓枠とドアをニス仕上げとした電車が走ったことがあった。また、「春は薄緑の服を着て」が発表された昭和20年代初め、同じ港街の横浜にも、東京市電のオリンピック塗装と似たものが登場している。