黒部猫町軽便探訪

萩原朔太郎の「猫町」を探して

 薬に侵された詩人が療養に訪れた温泉地で、化け猫の群集する町の幻覚を見る。そんなストーリーの小説、萩原朔太郎(1886-1942)の「猫町」は、幻覚を見た話が創作でなく、朔太郎自身の体験のように綴られている。

 私の現実に経験した次の事実も、所詮はモルヒネ中毒に中枢を冒された一詩人の、取りとめもないデカダンスの幻覚にしか過ぎないだらう。(略)私の為し得ることは、ただ自分の経験した事実だけを、報告の記事に書くだけである。

 だとすれば、文中にある「北越地方のKといふ温泉」「繁華なU町」といった舞台となる地名のイニシャルは実在の場所からつけられたものに違いない。それはいったいどこなのか。
 手掛かりとなるのは地名のイニシャルと、そのK温泉とU町の間には軽便鉄道が敷設されていたという記述。朔太郎はこの鉄道を途中下車し、山道を一人散策することから幻覚の猫町へ迷い込む。軽便鉄道とは、今では死語に近くなってしまった言葉だが、一般の鉄道よりも軌間が狭く、小型の車輌を使用する鉄道をいう。費用がかからないことから、昔は地方を中心に数多く敷設された。
 まず、『日本の軽便鉄道』(立風書房・1974)という本の要覧から、作品に該当しそうな鉄道を探した。北越とは越中と越後。越中は今の富山県、越後は新潟県だから、それらの県を走った軽便鉄道より、沿線にK温泉とU町がある路線を調べる。「猫町」の初出は文芸誌『セルパン』の1935(昭和10)年8月号、文中に十数年前の体験とあることから、それより以前、大正末頃に開業していたものでなければならない。
 このような条件を充たす鉄道が一つだけ見つかった。それは富山県の旧称・関西電力黒部線、現在は観光鉄道として有名な黒部峡谷鉄道である。1926(大正15)年に宇奈月-猫又間を開業。開業年はやや遅いが、イニシャルの地名Kは黒部、あるいは沿線の黒薙温泉か鐘釣温泉、Uは宇奈月ではないかと思ったのだ。
 しかし、驚いたのは“猫又”という駅名だ。猫又は、藤原定家の『明月記』によると、一度に7、8人の人間を食い殺すという化け猫で、兼好の『徒然草』第八十九段にも「奥山に、猫またといふもの」がある。水木しげるの漫画でも同名の妖怪が描かれ、「猫又は、三十年あまりも生きている、野生の老猫がなる。特長は、尾の先が二つにわかれていて、人をばかす」と解説。水木しげるの「猫又」は、無人島で食料に困った男が、尾の裂けた猫を食べたために、化け猫に変わってしまうという話だった。
 黒部峡谷の地図を広げてみると、黒部川の猫又よりやや下流には、“鼠返しの岸壁”というものが記されている。解説によれば、直立した岸壁で、鼠も登れずに引き返したというのが名称の由来らしい。そして猫又は、その鼠を追ってきた“猫もまた”、引き返した場所とある。どうも妖怪の伝承を隠しているように取れる。

 ある夏の日、私は黒部を訪れた。
 黒部峡谷鉄道の起点、宇奈月駅は多くの観光客で賑わっていた。駅前には黒部川電気記念館という黒部川の自然や水源開発の歴史を紹介する施設がある。今では観光鉄道のイメージが強い黒部峡谷鉄道も、もとは水源開発の資材運搬のために作られた鉄道だった。
 記念館の前には小さなL形の機関車が展示されていた。鉄道の敷設された頃から使用されたというアメリカのジェフリー社製電気機関車だ。この鉄道は開業当初から電化されていたのである。


黒部川電気記念館前に展示される
初期の電気機関車EB5

 「猫町」では「その玩具のやうな可愛い汽車は、落葉樹の林や、谷間の見える山峡やを、うねうねと曲りながら走つて行つた」と、温泉地へ行く軽便鉄道が汽車であったと記している。しかし、汽車という表現が蒸気機関車を指すとは限らない。昔はいろいろな鉄道の列車を慣用的に汽車と総称していたからだ。
 駅の窓口で目的の猫又まで切符を求めると、路線図にはちゃんと駅名が載っているのに、この駅は一般の乗降用でないといわれた。ほとんどの観光客が終点の欅平まで購入しているなか、いったい何の目的があるのかと駅員は怪訝な顔つきだ。まさか萩原朔太郎の……と説明するわけにはいかないから、一つ先の鐘釣まで買うことにした。
 たしかに猫又は作業員のためだけに作られた殺風景な駅だった。それでも1937(昭和12)年に欅平へ路線が延びるまでは、ここが終着駅だった。せめて駅名板でもと、私はトロッコの客車からカメラを向けた。妖怪の名前がついた駅名など、全国でもここだけではないだろうか。



〈上〉猫又駅の駅名板
〈下〉猫又駅の一つ先にある鐘釣駅付近

 鐘釣で下り列車に乗り換え、宇奈月へ戻って周辺を散策する。宇奈月は朔太郎が幻覚の猫町を見たと思われる場所だが、近代的なホテルが建ち、それらしい趣はない。
 駅前の記念撮影台には黒部峡谷鉄道を走るトロッコ列車の模型がある。通りの街灯にはトロッコ列車の意匠、土産物屋の店頭にはトロッコ饅頭。町のあちこちにトロッコが現れ、猫町ならぬ“トロッコ町”といった感じだ。
 私は猫を探そうと路地裏を歩いてみることにした。しかし、これだけの町なのに一匹も見つからない。ひょっとすると小説のように、皆、人の姿に化けてしまったのではないか?
 隣接した富山地方鉄道の駅へでると、駅前に「好日」と題したブロンズ像が置かれていた。婦人に抱かれた金色の猫がこちらを見ている。その日、宇奈月で見かけた猫は、このブロンズ像一匹だけだった。


宇奈月駅前のブロンズ像

 後日、『萩原朔太郎全集』(筑摩書房・1986-1989)の年譜より興味深いことを知った。朔太郎は度々、夏季に避暑を兼ねた温泉旅行をしていたのだ。だが、彼が好んで訪れたのは、郷里の前橋に近い伊香保温泉や四万温泉など。黒部へ行ったという記録はなかった。
 また、黒部峡谷鉄道は当初、専用鉄道として開業し、一般の利用を認めたのは1929(昭和4)年からだった。これでは文中の訪れたという年代に合わなくなってしまう。
 しかし、「猫町」が創作だったとしても、私は黒部が猫町に思える。温泉好きだった朔太郎が、温泉マークの点在する黒部の地図を眺め、そこに猫又という地名を見つけて、小説「猫町」を着想したのではないだろうか。


 本稿は雑誌『ラパン』の1998年9月号に寄稿した「猫町探訪 萩原朔太郎の『猫町』をさがして」に加筆したものである。愛着があってまた掲載することにした。
 当時、黒部が「猫町」のモデルなんてことを書いたのは自分だけではないかと得意になっていたが、最近、国会図書館で、改めて「猫町」に関する資料を閲覧し、私の執筆より1年も前に、同じことを指摘した論考があったことを知った。早稲田大学国文学会刊行の『国文学研究』No.121(1997.3)に掲載された都築賢一氏の「山猫と鉢巣電灯(シャンデリヤ)-萩原朔太郎『猫町』探訪記-」である。
 ただし、アプローチの仕方は違っていて、朔太郎の郷里、前橋の近くに“猫村”という土地が実在したこと(山の根元、“根っこ”が由来らしいが)、また、朔太郎と親交の深かった室生犀星が、当時秘境だった黒部峡谷を踏破した登山家の冠松次郎に関心をもっていたことから、その黒部に猫又という地名を見つけて、「猫町」を着想したのではないかとある。


 私は「猫町」本の蒐集家でもある。
 残念ながらオリジナルの川上澄生による挿画の『猫町』(版画荘・1935)は持っていないが、その復刻版(政治公論社・1968)がある。復刻版は『無限』創刊10周年記念の出版とかで限定1000部。古本市で安く手に入れた。
 清岡卓行の『萩原朔太郎『猫町』私論』(文藝春秋・1974、筑摩書房・1991)はユニークな「猫町」の研究書。朔太郎の詩に登場する猫にも触れている。
 『猫町の絵本』(北宋社・1979)は、私が「猫町」に興味をもつきっかけになった本。あとがきにある通り、「十余人の文章家および、同じく十余人の画家に「猫町」を一読していただき、それをきっかけとしておのずと心に浮んだ夢やらイメージやらを各自、自由勝手に書いていただき」まとめたもの。長新太、水木しげる、種村季弘、海野弘といった人たちのイラストやエッセイが載っている。
 画家やイラストレーターが挿画を描いた『猫町』では、山口マオ(私家版・1992)、市川曜子(透土社・1996)、金井田英津子(パロル舎・1997)によるものもある。
 金井田英津子は「猫町」に登場する軽便鉄道に強く惹かれたようで、蒸気機関車が牽く列車に加え、単端風の気動車も描いている。この作品は、町田康が朗読する紙芝居のような“画ニメ”と称するDVD版(東映アニメーション・2006)にもなった。
 挿画のかわりに写真を使った「心象写真制作スタッフ」による『猫町』(KKベストセラーズ・2006)もある。ほとんど猫の写真集といった感じだが、草津軽便鉄道の大正時代の絵葉書や、近年まで鎌倉駅の近くに残っていた病院の廃墟が掲載されている。
 つげ義春の『猫町紀行』(三輪舎・1982)は限定600部の豆本で、猫町ならぬ“犬目宿”を訪ねる画文集。刊行当時、『ガロ』の広告を見て注文した憶えがある。「猫町紀行」は『貧困旅行記』(晶文社・1991、新潮社・1995)に再録されている。

けむりプロとその仲間たち

 1960年代末から1970年代の鉄道趣味、なかでも軽便や古典機の趣味を語るうえで、けむりプロは欠くことのできない存在である。彼らの発表した詩情あふれる写真、文章、そして誌面のレイアウトは、多くのファンを魅了し、その作品がきっかけで軽便や古典機に興味をもつようになったという人も少なくないだろう。
 ここでは、そんなけむりプロと、彼らの門下生的なグループに再びスポットを当ててみようと思う。
(本稿は、2010年10月2日に開催された第6回「軽便鉄道模型祭」のプレイベント『軽便讃歌-けむりプロの世界』のパンフレットに加筆したものです。)


けむりのデビュー
 けむりプロは慶応義塾大学の鉄道研究会を母体として生まれた。あまりにも有名な話だが、彼らの結成は、上芦別の専用線を訪れて感銘を受け、写真集を出版しようと思い立ったのがきっかけで、1965年頃から、その風変わりなグループ名を名乗るようになる。
 最初の発表作品は、上芦別を走った9200ほかを取り上げた「OLD AMERICANS」(キネマ旬報増刊『蒸気機関車』No.2 1967.10)である。
 けむりプロがデビューした60年代末は、国鉄の蒸機が終焉を迎えようとしていた時代で、巷ではいわゆるSLブームが巻き起こっていた。そうしたなかでキネマ旬報社による『蒸気機関車』のような専門誌も創刊され、国鉄機より軽便・古典機に惹かれていた彼らも、多くの作品を発表する機会を得る。

けむりはグラフィックデザイナー
 けむりプロの写真は、鉄道と人、自然との融和を捉えた鉄道情景写真である(ちなみに写真家の荒木経惟は、風景に人の加わったものを情景という)。
 彼らはまた、写真を組むという行為を撮影と同様に重視する。メンバーの青山東男氏は、近年も復刻されている「岩波写真文庫」にその技法を学んだという。
 ブラジルの2フーターを紹介した「ペルス鉄道に乾盃!」(『SL』No.7 1972.冬)では、プロローグの数ページにわたって、古びた色調の情景写真を並べ、読者をメルヘン風な2フーターの世界へと誘う。こうした表現に惹かれたファンも多いに違いない。

『SL』No.7「ROLLING ON A 2-FOOT TRACK ペルス鉄道に乾盃!」

けむり以前の作品
 実は、けむりプロとしてデビューする以前にも、既にメンバーの一部が、慶応義塾大学鉄道研究会の名で連載を始めていた。1966年7月より『鉄道ファン』に連載された「台湾の汽車」がそれである。
 そのなかでも一際目を引くのが「基隆炭礦専用鉄道」(No.66 1966.12)。誌面全体を使った裁ち落としの写真が続き、しかも文章は数行のみという、当時の鉄道雑誌では画期的なレイアウトだった。彼らが早い時期から組写真やグラフィックデザインに関心をもっていたことが分かる。
 なお、余談になるが、同じ連載の「阿里山森林鉄道」(No.62 1966.8)にあるシェイが、つげ義春の名作漫画「ねじ式」(1968年作)に描かれている。それもほとんど写真のまま、見開きページにである。つげ義春はよほどこのシェイが気に入ったのだろう。

『鉄道ファン』No.66「台湾の汽車6 -基隆炭礦専用鉄道-」

やかんマークのこと
 けむりプロの作品は、挿入される地図やイラストにも、写真と同じくらいの魅力がある。
 例えば「竜ヶ崎の風情」「奥行臼の風情」などと題された線路配置のイラスト。味のあるフリーハンドで、そこに添えられた解説も愉しい。
 イラストといえば、忘れてならないのが、彼らのトレードマーク“やかん”だ。タイトルページなどにつけられたこのマークもファンに強い印象を与えた。
 やかんはいうまでもなく蒸気機関車の象徴なのだろうが、メンバーの行きつけだった銀座の、今はなきドイツ料理店「ケテル」(創業者の名)からヒントを得たとか。
 また、やかんマークの周囲に記されることのある「ESTABLISHED by KETTEL MARKER in 1957」のケテル・マーカーは、彼らの心象鉄道、セント・アメジスト鉄道の創業者の名前だという(メンバーの杉行夫氏によれば、その由来は一日かけても語りきれないものらしい)。

けむりはコピーライター
 けむりプロは、「オメガるーぷ」「すがすが並木」「ひろびろ田んぼ」など、鉄道やその沿線の気に入ったものに“けむり語”とでもいうべき名称をつけるのを得意としたが(彼らは名づけるという意味のドイツ語nennenから、それを“ネンネン趣味”という)、作品のタイトルにも独特なセンスが光る。
 例えば「糸魚川のポプラの木」「ミルクを飲みに来ませんか.」。鉄道とは直接関係のない沿線の風物を用いながら、その鉄道を強くイメージさせることに成功している。
 写真集『鉄道讃歌』(交友社・1971)の広告に使われたキャッチコピー、「けむりプロはポプラの梢を渡る風を思い出しながらこの本を作りました」も同様で、心の琴線に触れる言葉を作るのが巧い。

けむりと賢治
 けむりプロが宮沢賢治に傾倒していたことはよく知られている。
 『鉄道讃歌』の巻頭にある同名の詩より。

ああいいな せいせいするな 桜は咲いて日に光り… そのとき突然 腕木信号機がカタリと倒れ われらが親愛なる布佐機関士の 昼一番の列車の出発である

 この一節は、賢治の詩「雲の信号」「風景」「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」を巧くコラージュするように作られている。
 賢治の作風を取り入れた文章には「野辺山 きよさと 甲斐大泉」(『蒸気機関車』No.4 1968.4)がある。

まるでもう列車はゆっくりになってしまって、すぐ目の前を流れている土の色や粒子の具合が、手にとるようにわかります。

 C56の走る小海線を題材に、軽妙なですます調で綴ったこの紀行文は隠れた名作だ。

心象鉄道という造語
 宮沢賢治は自らの詩を心象スケッチと称していたが、けむりプロはそこから“心象鉄道”なる造語を生み出す。
 その言葉の意味する、架空の鉄道を構想するという行為は、鉄道模型の世界では別段珍しくなく、それまでにも行われてきたことだが、心象鉄道と命名され、改めてそのことが意識されるようになった。心象鉄道は鉄道趣味の一ジャンルとして確立する。
 彼らの発表した心象鉄道には「南部軽便鉄道」前後篇(『蒸気機関車』No.6 1968.6、No.1 1968.夏)がある。また、87.PRECINCT(けむりプロ+さーくる「軽」)名義で『鉄道模型趣味』に連載された「the DACHS STORY」の石狩軽便軌道も、模型として具体化させたその一つといえる。
 “なんかる”こと「南部軽便鉄道」は、けむりプロのメンバーが婚約者の旧家で見た古いアルバムより、彼女の祖父が幻の軽便鉄道の創設者だったと知ることから始まる創作。
 前篇は鉄道の歴史と車輛の紹介。もっともらしい鉄道史研究のようでいてユーモアもある。後篇では実際に乗車したような沿線案内が綴られる。
 「南部軽便鉄道」の特色は、実物の写真が掲載されていたこと。台湾の製糖会社と思しき機関車など、一見しただけでは正体の分からない写真が選ばれ、あたかも実在したような印象を与えたのである。

きせるプロ
 けむりプロの門下生的な存在に、きせるプロがいた。夕張鉄道を取材した『鹿の谷の二月』(「蒸気機関車」No.7 1970.冬)でデビューしたきせるプロは、けむりプロと似たようなロゴを使い、自らもその影響があることを認めている。
 けむりプロが北海道の簡易軌道を訪れて「ミルクを飲みに来ませんか.」Won’t you come to drink milk?(『鉄道ファン』No.112 1970.9)を発表すれば、きせるプロは「ミルクを飲みに来たものの」we came to drink milk, but(『蒸気機関車』No.14 1971.7)と、それに応えるような作品を発表した。
 だが、けむりプロとは世代の違いもあり、蒸機のない軽便や地方私鉄を多く取り上げている。頸城鉄道や井笠鉄道といった軽便のほか、北丹鉄道など、サブロクの地方私鉄を題材とした作品にも味わい深いものがある。

汽車くらぶ
 きせるプロとほぼ同時期に活動を始めたグループに、汽車くらぶがいた。デビュー作の「日高のサラブレッド」(『鉄道ジャーナル』No.47 1971.3)は日高本線のC11を追ったもの。汽車くらぶには国鉄の蒸機を題材とした作品が多かったが、リーダーだった、いのうえこーいち氏の個人名義で出版された『糸魚川のポプラの木 -東洋活性白土専用線の機関車たち-』(プレス・アイゼンバーン・1976)など、そのタイトルはもちろん、掲載された詩「ポプラの木の下で」も、けむりプロの同名の作品から取られており、彼らの門下生的な一面もあった。
 ちなみにこの本は、白い表紙の文庫判ということから“白い小さな本”と称された。鉄道連隊のEタンクを題材とした佐々木桔梗氏の『E くろがねの馬の物語』(プレス・アイゼンバーン・1973)がその最初で、この装幀が気に入ったいのうえ氏は、その後も『C11227とその仲間たち -大井川鉄道の保存蒸気機関車-』(1977・企画室NEKO)ほか、車の本の『シトローエン2CV』(けむりプロの下島啓亨氏が乗っていた2CVも掲載されている)『ホンダZ』を制作している。
 『鉄道ジャーナル』には、汽車くらぶの「旅のどこかに」という連載があった。旅先でふと出会った鉄道を紹介したもので、「旅のどこかに」というタイトルが、いかにも70年代を思わせる(ヒッピーの影響か、当時は若者の間で自己探求のような旅をすることがブームだった)。
 その連載の「軽便再発見 その1」(No.56 1971.12)に若菜白土石灰専用鉄道とあるのは、実は駒形石灰の専用線で、心象鉄道風な、鉄道との偶然の出会いを綴った創作になっている。彼らには、スペインのナローを日本の鉄道のように紹介した「布納沙炭礦 三棚専用線」(『SL』No.10 1976)という作品もある。

こっそり ひっそり めだたずに
 70年代に入り、軽便鉄道が相次いで廃止されると、いわゆるトロッコ、ナローの専用線に目が向けられるようになる。トロッコや廃線跡を主題とする『鉄道ファン』の連載「こっそり ひっそり めだたずに」は、そんな時代に始まった。タイトルの命名は、けむりプロの杉行夫氏である。
 第1回は「明鑛平山」(No.123 1971.7)。鉱山の凸電を発見したこの作品は、コンパニー《バプール》なる謎のグループによる。松本謙一氏など著名人による匿名グループという説もあるが、その正体は不明だ。
 「こっそり ひっそり めだたずに」は、トロッコ趣味に傾いていたけむりプロの門下生たちの恰好な発表の場となった。
 なかでも、きせるプロと汽車くらぶによる3部作「残された森林鉄道を求めて」(No.136 1972.8、No.148 1973.8、No.150 1973.10)は、けむりプロの手法を受け継ぎ、イラストや地図を効果的に配した佳作。模型のジオラマを「残された…」風に紹介したDER FUNFERの「郷ノ原森林鉄道」(『とれいん』No.14 1976.2)などもあり、ファンに与えた影響は大きい。
 「こっそり ひっそり めだたずに」の特色は、たんなるトロッコや廃線跡の情報でなく、それらの詩情がテーマになっていたことである。また、鉄道に求めるものは何なのか、自己探求を提唱する “心のアルバム”だったことも特筆すべきだろう。
 同連載の、松本謙一氏とけむりプロによる「あの庫に… 津田沼鉄道第2聯隊跡」(No.125 1971.9)に、こんな一節がある。

我々は何を鉄道に求めるのか。私は永遠の心の豊かさを求めたいと思う。失なわれた鉄路は現身(うつしみ)とは違った夢の拡がりがある。廃線跡に立って独り黙想する時、あるいは何人かで訪れ、そのありし日々を語らう時、その一時の夢の拡がりは心の中に何か大きなものを残してくれるだろう。

ぎんがてつどうとぽえていっく
 「こっそり ひっそり めだたずに」を機にデビューしたグループもいた。ぎんがてつどう(THE MILKY WAY R.R.)と、ぽえていっく ふおと アーティスツである。ぎんがてつどうは「立山砂防用軌道」(No.128 1971.12)、ぽえていっく…は奥多摩のダム工事線跡を撮影した「廃線」(No.132 1972.4)でデビュー。この二つのグループは共に『れいろを』の同人で、メンバーの行き来もあったようだ。
 宮沢賢治の作品を名乗るぎんがてつどうは、その名の通り、詩や童話を得意とし、創刊間もない『とれいん』の「僕の心象鉄道」というコーナーに、井笠鉄道の運転士が記したような創作、「俺はけーべんの運転士」(No.2 1975.2)を発表するなど、彼らならではの世界を作り上げた。

その後のけむりと仲間たち
 70年代も後半になると、けむりプロをはじめとする各グループは、ほとんど作品を発表しなくなってしまう。理由は現存する鉄道に魅力がなくなってしまったからか。しかし、彼らの活動が休止したわけではない。けむりプロとその仲間たちは、羅須地人鉄道協会として保存鉄道の建設を始め、『蒸気機関車』に「羅須通信」を連載、あるいは87.PRECINCTとして、模型を制作・製品化、『軽便鉄道 レイアウトの製作』(機芸出版社・1978)を刊行するなど、むしろ精力的に、より広範なジャンルへと展開していった。
 そうしたなか、いのうえこーいち氏は個人名義で執筆を続け、「軽便紀行」(『軽便鉄道 郷愁の軌跡』毎日新聞社・1978)など、汽車くらぶ時代と変わらない味わいの作品を発表している。
 また、同じ頃、次代を担う名取紀之氏もCRANK. UNION名義で登場する。その3部作「2フィート礼讃」(『蒸気機関車』No.46 1976.11、No.48 1977.3、No.50 1977.7)は、後の『トワイライトゾ〜ン』とは趣の異なる、詩的な「こっそり ひっそり めだたずに」の流れを汲むものだった。

 なお、90年代には、けむりプロのメンバーも写真を提供した小林隆則氏の写真集『鉄道青年 いくつかの軽便鉄道の記憶』(鉄道青年社・1993)が刊行されている。かつての『鉄道讃歌』を彷彿させるそれは、けむりプロへのオマージュといえるだろう。

けむりと仲間たち・作品リスト

[敬称略]

◆ けむりプロ(KEMURI PRO.)
下島啓亨・杉行夫・井上一郎・梅村正明・青山東男・倉持尚弘・内田真一

◇『蒸気機関車』
「OLD AMERICANS」 No.2(キネマ旬報増刊)1967.10
「TANK ENGINE」 No.3(〃)1967.12
「草軽のこと」 No.1(月刊)1968.1
「なりひらのねるそん」 No.2(〃)1968.2
「夜の機関車」 No.3(〃)1968.3
「野辺山 きよさと 甲斐大泉 けむりふうイメージ・スケッチ」 No.4(〃)1968.4
「86抄 THE IMAGE OF STEAMLOCO-8620」 No.5(〃)1968.5
「IMAGINATION RAIL ROADING 南部軽便鉄道〔前篇〕」 No.6(〃)1968.6
「IMAGINATION RAIL ROADING 南部軽便鉄道〔後篇〕」 No.1(季刊)1968.夏
「C51は美しかったか」 No.2(〃)1968.秋
「鉄道讃歌 五能線・日曹・沼尻」 No.3(〃)1969.冬
「鉄道讃歌 阿里山鉄道・基隆炭鉱鉄道」「われら市民芸術の旗手たらん けむりプロ“鉄道写真”を語る」 No.4(〃)1969.春
「《illustration corner》 IMAGINATION RAIL ROADING 南部軽便の夜」 No.5(〃)1969.夏
「大型蒸機の去りゆく日々に」 No.6(〃)1969.秋
「全国SL撮影ガイド 五能線」「〃 台湾」 1969増刊『鉄道写真撮影読本』
「龍ケ崎」「HIMALAYAN TWO-FOOTERS」 No.7(〃)1970.冬
「糸魚川のポプラの木 THE LAST TWO-FOOTERS」 No.8(〃)1970.春
「尾小屋の蒸機軽便」 No.10(〃)1970.秋
「ありし日の補機」「去年いちばん楽しかった秋の日のこと」 No.16(隔月刊)1971.11
「ひょうたんつぎけむりかあな 〈鉄道語録集〉」「庫」 No.17(〃)1972.1
「SL動態保存考 野辺山軽便」 No.21(〃)1972.9
「炭礦のBLW 北海道の8100と9200たち」 No.26(〃)1973.7
「滝沢奥中山…… ああ、今はもう追憶のかなた」 No.49(〃)1977.5

◇『SL』
「上芦別ものがたり」
No.2 1969
「ビンチドイスとその仲間たち(VINTI E DOIS E SEUS AMIGOS)1 Dona Teresa Christina鉄道」 No.6 1972.秋
「〃2 ROLLING ON A 2-FOOT TRACK ペルス鉄道に乾盃!」*C.S.Smallとの合作 No.7 1972.冬
「〃3 高原にけむりの影を見た」 No.8 1973
「〃4 VIACAO FERREA CENTRO OESTE ESTACAO SAO JOAO DEL REI」 No.9 1974
「〃5 OLD AMERICANS IN MINAS GERIAS」 No.10 1976

◇『鉄道ファン』
「写真紀行 台湾の汽車 1」 No.61 1966.7
「〃2 -阿里山森林鉄道-」 No.62 1966.8
「〃3 -製糖会社の鉄道-」 No.63 1966.9
「〃4 -台湾鉄路局・台東線-」 No.64 1966.10
「〃5 -瑞三鉱業公司専用鉄道-」 No.65 1966.11
「〃6 -基隆炭礦専用鉄道-」 No.66 1966.12
「〃7 -羅東森林鉄道-」 No.68 1967.2
「〃8 -台湾鉄路局・縦貫線-」 No.69 1967.3
*連載「台湾の汽車」は慶応義塾大学鉄道研究会(井上一郎・梅村正明・河合正・杉行夫)

「MARTIN’S LIGHT RAILWAYS」 No.108 1970.5
「ミルクを飲みに来ませんか.」 No.112 1970.9
「鉄道ファン・フォトサロン KEMURI PRO.作品集 THE HIMALAYAN TWO-FOOTERS -ダージリン ヒマラヤン鉄道-」「けむり おしゃまんべ放題 “鉄道讃歌”自己評定」 No.119 1971.3
「インドの汽車-1」 No.121 1971.5
「〃-2 カングラ溪谷鉄道」 No.122 1971.6
「〃-3 マテラン登山鉄道・その他」「汐留のB6」 No.123 1971.7
「〃-4」 No.124 1971.8
「こっそり ひっそり めだたずに 2 あの庫に… 津田沼鉄道第2聯隊跡」*松本謙一との合作 「DENVER & RIO GRANDE WESTERN R.R. SILVERTON BRANCH」 No.125 1971.9
「インドの汽車-EXTRA INDIAN GOVERNMENT RAILWAYS CLASS WP」*高田隆雄との合作 No.126 1971.10
「或る動態保存の形態」 No.146 1973.6
「失われた北海道の鉄道 炭鉱鉄道 茅沼炭化工業専用鉄道の想い出」 No.377 1992.9

◇『レイル・マガジン』
「小海線のC56」 No.1 1984.2
「草軽おもいでのアルバム」 No.2 1984.3

◇『鉄道模型趣味』
「木曽のBaldwin」 No.280 1971.10
「鉄道模型に関するけむり風考察」 No.290 1972.8

◇『忘れ得ぬ鉄道情景』
*けむりプロ(監修) No.1(とれいん増刊)2012.7

◇ 単行本
『鉄道讃歌』 交友社・1971
『鉄道讃歌』復刊版 復刊ドットコム・2016
『南部軽便の譜』 南軽出版局・2011
『Steam on 2ft. Lines Ⅰ 基隆炭鉱鉄道』 南軽出版局・2012
『〃 Ⅱ ダージリン・ヒマラヤン鉄道&マテラン登山鉄道』 南軽出版局・2013
『〃 Ⅲ ペルス―ピラポラ鉄道』 南軽出版局・2014
『貝島炭礦鉄道』 南軽出版局・2015
『北のOld American』 南軽出版局・2016
『阿里山森林鉄道』 南軽出版局・2017

このほか、個人名義の作品として、細井扇朗(青山東男のペンネーム)「組写真・わたしの体験」(『蒸気機関車』1969増刊『鉄道写真撮影読本』)、杉行夫「基隆炭礦の鉄道はそこにあった」(『SL』No.5 1972.夏)などがある。

◆ きせるプロ(KHSIER PRO.)
平川洋一・石川良一・橋本一朗・伊藤英二 他

◇『蒸気機関車』
「鹿の谷の二月」 No.7(季刊)1970.冬
「暗闇の彼方」 No.8(〃)1970.春
「空虚なる響き」「九十九里鉄道」 No.9(〃)1970.夏
「C11の里」 No.10(〃)1970.秋
「汽車は行く 九州の夏」「ていね」「私のSL撮影紀行 忍法「つばめ」打ち(*鳴尾芸二 名義)」 1970増刊『鉄道写真と汽車の旅 北海道・九州SL徹底ガイド』
「海沿いの路」 No.11(隔月刊)1971.1
「続 海沿いの路」 No.12(〃)1971.3
「北丹鐵道」 No.13(〃)1971.5
「ミルクを飲みに来たものの we came to drink milk, but」 No.14(〃)1971.7
「井笠鉄道 春よりも若かった頃」 No.15(〃)1971.9
「桜の花の散る頃 気持ちのいい鉄道がまた一つ減った」 No.16(〃)1971.11
「加悦鉄道」 No.17(〃)1972.1
「日曹」 No.18(〃)1972.3
「明治鉱業平山 電気機関車の走る炭礦」 No.20(〃)1972.7
「東濃鉄道笠原線」 No.21(〃)1972.9
「STEAM LOCO NOSTALGIA 雪と煙のバラード・塩狩峠」 No.23(〃)1973.1
「春を待つこころ 村山でのコッペル」 No.24(〃)1973.3
「下津井電鉄」 No.26(〃)1973.7
「続 井笠鉄道 -夏のおわりに 春がもどってきた話」 No.28(〃)1973.11
「小海線」 No.29(〃)1974.1
「2ftのこと〔1〕[OBB]」 No.30(〃)1974.3
「関東鉄道鉾田線」 No.31(〃)1974.5
「2ftのこと〔2〕」 No.32(〃)1974.7

◆ 汽車くらぶ
井上恒一(いのうえこーいち)・笹本健次・西村光・寺田牧夫・笹本真太郎・正村修身 他

◇『鉄道ジャーナル』
「日高のサラブレッド」 No.47 1971.3
「春陽 箱根登山鉄道」 No.49 1971.5
「旅情をのせて汽車はゆく 只見川の溪谷をぬう会津只見線」 No.52 1971.8
「旅のどこかに(1) NARROW・NOSTALGIE part-1」 No.54 1971.10
「〃(2) 秋 防石鉄道跡に残るクラウス2号機」「49681というカマ」 No.55 1971.11
「〃(3) 軽便再発見 その1 若菜白土石灰専用鉄道」 No.56 1971.12
「〃(4) 白のイメージ」 No.58 1972.2
「〃(5) 歴史の里のC57」 No.59 1972.3
「太陽の国のSLたち 南九州のSL 日豊本線と南九州に残存11形式を追う」*協力・江坂光守 No.64 1972.8
「涼風にさそわれて その1 最果てゆき 宗谷本線のC55」 No.65 1972.9
「私鉄・専用線の蒸気機関車 1967-1973 -Part 1-」 No.70 1973.2
「〃-Part 2- 野ざらし機関車・1」「L’esthetique de C56 -軽モーガル機 C56の角度-」 No.71 1973.3
「〃-Part 3- ナローの機関車」 No.72 1973.4
「〃-Part 4- 野ざらし機関車・2」 No.73 1973.5
「〃-Part 5- 払下げ機関車・1 9600抄」 No.74 1973.6
「〃-Part 6- 古き佳き機関車たち・1 北と南の“石炭や”さん」 No.75 1973.7
「〃-Part 7- 払下げ機関車・2 国鉄形機関車」 No.77 1973.9
「〃-Part 8- 工場ヤードの働き者・1」 No.78 1973.10
「〃-Part 9- 工場ヤードの働き者・2」 No.79 1973.11
「〃-Part 10- 古き佳き機関車・2」 No.81 1974.1
「〃-Part 11- 栄光の古典機たち」 No.82 1974.2
「〃-Part 12-」 No.84 1974.4
「大井川鉄道のC56を訪ねて」 No.160 1980.6

◇『蒸気機関車』
「機関車の美学 形式C50」 No.30(隔月刊)1974.3

◇『SL』
「蒸気機関車のある風景 1 三江線 2 明知線」 No.9 1974
「軽便讃歌 2 布納沙炭礦 三棚専用線」「軽便讃歌 4 森とお城のファイア・レス」 No.10 1976

◇『鉄道ファン』
「C12の小さな足跡」 No.159 1974.7

◇『忘れ得ぬ鉄道情景』
「明礦平山」 No.1(とれいん増刊)2012.7

◇ 単行本
『ものしり100シリーズ 12 鉄道 EL・SL鉄道車両の魅力!』 若木書房・1975
『C11227とその仲間たち -大井川鉄道の保存蒸気機関車-』 企画室NEKO・1977

このほか、個人名義の作品として、『軽便鉄道 郷愁の軌跡』(毎日新聞社・1978)掲載の、いのうえこーいち「軽便紀行」、いのうえこーいち『糸魚川のポプラの木 -東洋活性白土専用線の機関車たち-』(プレス・アイゼンバーン・1976)、いのうえこーいち・西村光『コッペル4683 軽便蒸気機関車のプロトタイプ』(企画室NEKO・1982)、いのうえこーいち、西村光他による『狭軌鉄道Ⅰ「鉄道情景の原点・1/1の模型世界」(枻出版社・2002)などがある。

◆ けむりプロ・きせるプロ・汽車くらぶの合作
◇『鉄道ファン』
きせるプロ・けむりプロ
「こっそり ひっそり めだたずに 6 海の見える金山」 No.134 1972.6
きせるプロ・汽車くらぶ
「〃7 残された森林鉄道を求めて」 No.136 1972.8
きせるプロ・汽車くらぶ
「〃 10 残された森林鉄道を求めて Part-2 秩父/加江田/津軽」 No.148 1973.8
きせるプロ・汽車くらぶ
「残された森林鉄道を求めて Part-3 木曾森林鉄道」 No.150 1973.10

◇『鉄道ジャーナル』
汽車くらぶ・きせるプロ・けむりプロ(協力)
「糸魚川の冬に煙は上がった -雨と煙の日曜日 87/87鉄道3号機の運転会-」 No.72 1973.4
汽車くらぶ・きせるプロ
「りんごの樹のある限り -五能線の8620-」 No.73 1973.5

◆ ぎんがてつどう(THE MILKY WAY R.R.)
永澤吉晃・片岡俊夫・水上陽介・宮坂和人・松本典久

◇『鉄道ファン』
「こっそり ひっそり めだたずに 4 立山砂防用軌道」 No.128 1971.12
「銀河鉄道の夜」 No.133 1972.5
「こっそり ひっそり めだたずに 8 陽だまりの子供たち」 No.141 1973.1

◇『とれいん』
「僕の心象鉄道 俺はけーべんの運転士 Imaginary 井笠」 No.2 1975.2
「ポプラをわたる風のように」*角田真利子(絵) No.6 1975.6
「風立ちぬ 高原組曲 第一楽章」 No.7 1975.7

このほか、個人名義の作品として、永澤吉晃「It’s A Beautiful Day Today」(『蒸気機関車』No.29 1974.1)などがある。

◆ ぽえていっく ふおと アーティスツ(POETIC P.A.)
桟敷正一朗・桟敷勇次郎

◇『鉄道ファン』
「こっそり ひっそり めだたずに 5 廃線」 No.132 1972.4
「とうきょう-かんだ」 No.161 1974.9

◆ ぎんがてつどう・ぽえていっく ふおと アーティスツの合作
◇『鉄道ファン』
「炭砿(やま)の印象 三菱大夕張鉄道」 No.150 1973.10

◆ 87. PRECINCT(87分署)
倉持尚弘・加沢宏・橋本真・大久保清・長門克巳・西裕之 他、同人にけむりプロのメンバー等

◇『鉄道模型趣味』
「the DACHS STORY 1. 誕生物語」 No.295 1973.1
「〃 2. レイアウト志向の具体化〈石狩軽便軌道〉」 No.296 1973.2
「〃 3. ダックスの製作」 No.297 1973.3
「〃 4. 石軽の車輛達 -機関車編-」 No.300 1973.6
「〃 5. 山線のサブレイアウト」 No.301 1973.7
「〃 6. 町線のサブレイアウト」「山線のサブレイアウト風景」 No.302 1973.8
「〃 7. トロッコのみえる風景 -セクションレイアウトへの招待-」 No.305 1973.11
「〃 8. システムレイアウトへ向って」 No.306 1973.12
「DACHSを考える 答にかえて」 No.309 1974.3
「軽便の譜/木曽森林の車輛たち」 No.318 1974.12
「冬物語」 No.319 1975.1
「オハ31系からスイテ38を作る」 No.330 1975.12
「ミニミニ大作戦 ケースの中を列車が走る! ナローのミニレイアウト」 No.349 1977.7
「SLOC 集合式レイアウト〈System Layout Owners Club〉」 No.356 1978.2
「サンデーリバー風の客車のバラエティー」 No.359 1978.5
「集合式レイアウトとも接続できるNゲージのレイアウトセクション 気動車と電車が来る 山裾の駅/咲花」 No.368 増刊『プレイモデル』1979.冬
「修理工場のある軽便機関庫」 No.372 1979.4

◇『子供の科学』
「鉄道模型入門 軽便モデル教室 しくみときまり」 No.477 1976.1
「〃 -プラ板で作る- BB凸電」 No.478 1976.2
「〃 レイアウトの製作」 No.479 1976.3
「〃 レイアウトの配線」 No.480 1976.4
「〃 やさしく作る貨車」 No.481 1976.5
「〃 機関庫と駅を作る」 No.482 1976.6
「〃 ボギー客車を作る」「軽便鉄道の横顔」 No.483 1976.7
「〃 軽便鉄道のディーゼルカー」 No.484 1976.8
「〃 小型レイアウトの完成」 No.485 1976.9
「〃 作業車を動力化した幽霊を作る」 No.486 1976.10
「〃 エッチング板キットでSLを作る」 No.487 1976.11
「軽便鉄道のロータリー車 ロキ1を作る」 No.488 1976.12

◇ 単行本
『模型図面集 軽便の譜 vol.1 木曽森林鉄道』 乗工社・1975
『軽便の譜 vol.2 エバグリーンの車両達』 乗工社・1976
『軽便鉄道 レイアウトの製作』 機芸出版社・1978
『ナローゲージ モデル&ジオラマ』 企画室NEKO・1980

◆ 羅須地人鉄道協会
青山東男 他、けむりプロとその仲間たち

◇『蒸気機関車』
「羅須通信」第1号-第17号 No.56(隔月刊)1978.7-No.74(〃)1981.7 *No.68、72を除く

◇『鉄道ファン』
「糸魚川のポプラの木 -東洋活性白土専用線と故松澤義男氏を偲ぶ-」 No.289 1985.5
(青山東男、いのうえこーいち)

◆ CRANK.UNION
名取紀之・谷沢晃人

◇『蒸気機関車』
「2フィート礼讃・PART 1 立山の小さな走者たち -立山砂防軌道-」 No.46(隔月刊)1976.11
「〃 PART 2 釧路の街の見える丘 -太平洋炭礦-」 No.48(〃)1977.3
「〃 PART 3 葛生の町の片隅で -駒形石灰工業-」 No.50(〃)1977.7
「B6の汽笛 三井美唄の2500」 No.57(〃)1978.9

◇『鉄道模型趣味』
「HOn2のレイアウト 生駒銅山軌道」 No.354 1977.12

◆ 小林隆則

◇ 単行本
『鉄道青年 いくつかの軽便鉄道の記憶』*けむりプロ(写真協力) 鉄道青年社・1993

ビブリオマニアの鉄道書

佐々木桔梗とプレス・ビブリオマーヌ[1]

 『鉄道ファン』や『鉄道ジャーナル』に、「鉄道と文学」「鉄道書の書誌学」といったユニークなエッセイを寄稿した佐々木桔梗(1922-2009)。氏はプライベート・プレス(印刷や装幀にこだわった限定本を刊行する「私的」な出版社)の「プレス・ビブリオマーヌ」を主宰し、自ら著した鉄道書も数多く上梓した。
 近年、デザイン誌の『アイデア』でプライベート・プレスの特集が組まれ、そのNo.367(2014.11)に、ビブリオマーヌの本が数ページに亘って紹介されたが、本稿では、デザイン誌とはまた違った視点で、桔梗氏の活動のなかでも鉄道趣味に焦点を当て、ビブリオマーヌや他社の単行本、雑誌に掲載された作品も紹介する。

 1922(大正11)年、芝三田の由緒ある本願寺派の寺、教誓寺に生まれた桔梗氏は、たいへん恵まれた環境に育った。幼い頃に祖父とでかけた線路端で汽車に惹かれ、やがて、鉄道写真に興味をもち始めるが、15歳の頃には、当時のサラリーマンの月給の倍くらいしたドイツ製カメラ「バルディナ」を買い与えられたという。
 撮影した写真のアルバム作りには、説明文やレイアウトの工夫も必要になる。そうしたことが文章や装幀(デザイン)に関心をもつきっかけになった。
 仏教系の大学に進学し、京都で暮らすようになった桔梗氏は、ある古書店で江川書房からでた堀辰雄の『ルウベンスの偽画』(1933)と出会う。それからは限定本や美書にも興味を惹かれるようになり、蒐書耽読の生活が始まった。
 戦時中は徴兵されて南方に出征するが、無事復員し、戦後しばらくは学生向けの『ジュニア・タイムス』などに記事を書く新聞記者として働いたこともあった。
その後、野田書房からでたアンドレ・ジイドの『窄き門』(1937)と出会ったことで、再び愛書熱に火がつき、1956(昭和31)年にプライベート・プレスの「プレス・ビブリオマーヌ」を立ち上げる。
 後年、父の跡を継いで教誓寺の住職になるが、1981(昭和56)年までの25年に亘り出版活動を続けた。上梓した本の執筆者も、堀口大学、三島由紀夫、澁澤龍彦、吉行淳之介、安部公房など、錚々たる顔ぶれが並ぶ。
 ビブリオマーヌの本のなかには桔梗氏自身の著作もある。装幀や稀覯本に関するもののほか、やはり多いのは鉄道関係である。それらの刊行が1970年代に集中しているのは、この時代に終焉を迎えた国鉄の蒸気機関車やオリエント急行の影響だろう。

 なお、ビブリオマーヌを紹介した文章には前述の『アイデア』のほか、下記のものがある。

佐々木桔梗「私の仕事」(『本』No.1 麦書房・1964.2)
村島健一「珍本気違い(プレス・ビブリオマーヌ)の主人」(『芸術生活』No.202 芸術生活社・1965.1)
佐々木桔梗「装本二十五年の哀歓」・峯村幸造「佐々木桔梗=本の美学」(『季刊銀花』No.40 文化出版局・1979.12)
佐々木桔梗「出版三昧」(『これくしょん』No.208 吾八書房・1995.12)