廃線とブタ

私の思い出珍写真[2]

 相鉄の相模大塚から分岐し、厚木飛行場へ続いていた引込線は、戦時中の1941(昭和16)年に敷設されたもので、戦後、飛行場とともに米軍が接収、1998年まで航空燃料の輸送に使われたという。
 今ではレールが撤去され、その跡地に家が建っているが、それまでの長い間、引込線は放置されたまま、ところどころに草が生い茂るなど、寺田寅彦(夏目漱石の門下生でもあった)の俳句「昼顔やレールさびたる旧線路」を思わせる風情があった。

 20年ほど前、海老名で小田急ファミリー鉄道展を見た帰りに、この引込線を訪れてみた。
 線路は1キロ程度の短い距離ながら、建て込んだ民家の中を抜けたり、東名高速の上を渡ったりと変化に富んでいた。ビンケースやゴミバケツなどが置かれた居酒屋の裏手には小さな踏切もあった。
 そんな踏切をカメラに収めようと近づいて行くと、線路に何やら大きな黒い動物が見えた。大型犬か? それにしてはズングリしている。さらに近づいて見ると、それは大きな黒ブタだった。
 東南アジアの線路端にブタが佇む写真を見たことがあるが、まさか日本でこんな光景に出会うとは……。体にはハーネス(胴輪)がつけられ、誰かが飼っているようだが、飼い主は見当たらず、一匹だけでモクモクと線路に生えた草を食んでいた。
 近年ではブタもペットとして人気があるらしいが、こんなに大きなブタを飼う人がいたのか。すぐ近くには「厚木豚」と看板に記した店など、飲食店が軒を連ねていたので、もしかしたら食用だったのかもしれない。

後日訪れると、今度はネコがポーズをとってくれた。

ハイゼット万歳

私の思い出珍写真[1]

 1980年代初めのことである。今はなき日立電鉄を撮影した帰り、常磐線の車窓に妙なものを見つけた。線路の上に軽トラが載っていたのである。
 早速、最寄りの天王台で下車し、近くまで行ってみると、フロントマスクの形から「ドラえもん」と呼ばれる360ccのダイハツ・ハイゼット(4代目)とトロッコが、レールを流用したと思われる長いリンクで繋がれていた。
 クルマはもとのホイールのまま、その周りが車輪になっている。ナンバーもついているので、車輪をタイヤに交換して道路も走る「軌陸車」なのかもしれない。
 その日は既に日が暮れて、うまく撮影できなかったため、後日再訪してみると、ハイゼットは2ストロークエンジン特有の白煙を吐きながら、バラストを積んだトロッコを牽引して、線路を行ったり来たりしていた。
 当時、常磐線の我孫子〜取手間では複々線化の工事が行われていた。ハイゼットは新しく敷いた線路のバラストを撒くために使われていたのだった。

 近年ではDMV(Dual Mode Vehicle)と称する車両が登場しているが、天王台で見たような、既存のクルマに車輪を履かせたものも、調べてみるといろいろあるようだ。
 名鉄には軽トラの三菱ミニキャブ(5代目)を改造した保線用のモーターカーがあるという。外観はほとんど軽トラのまま、天王台で見たハイゼットと似ている。
 また、1950年代のフランス国鉄には、シトロエン2CVバンの保線用モーターカーがあったという。

「フォード万歳」のこと

「私の思い出写真」の思い出

 70年代半ばの『鉄道ファン』に「私の思い出写真」という連載があった。そのタイトルから、特にゲテモノを取り上げる連載として始めたわけではないのだろうが、第1回が、牧野俊介氏による「南筑軌道のオバQ機関車」と題した石油発動車だったからか、その後も根室拓殖の単端や淀川のドコービルなど、ナローの変わった車両が多く紹介された。
 なかでも第2回の、臼井茂信氏による「フォード万歳」(1975.4)は、足尾銅山馬車鉄道を走っていたガソリン機関車を捉えたもので、A型フォードのボンネットに簡単なキャブをつけただけのスタイルには大きな衝撃を受けた。
 実は「フォード万歳」には“プレゼント”があって、掲載された写真の密着焼き手札判が、抽選で読者に贈られた。
 写真は臼井氏の中学時代の1934(昭和9)年、掲載より41年前の撮影ということで、中高生に限り、先着41名としたが、予想に反して希望者が多かったため、抽選100名に改められている。
 当時、足尾を訪れた臼井氏と同じ学年の中学生だった私は、巻末にあったその告知を目ざとく見つけると、すぐに葉書を送って写真を入手したが、私のようなのは少数派で、ナローのゲテモノに興味をもつ10代の若者がそんなにいたとは思えない。応募葉書には学校名や学年も明記することになっていたが、自分や知人の子どもの名前を借りて応募した大人も結構いたのではないか。

緑の丘を走る流線型

小出正吾「太あ坊」の東横キハ1形

 東横電鉄(現・東急)のキハ1形は、1936(昭和11)年に電力消費を抑える目的で導入した気動車だった。
 だが、折悪しく翌年に日中戦争が勃発、ガソリン価格が高騰したことから、わずか数年の活躍で他社に譲渡されてしまった。
 キハ1形が東横線を走ったのは1936年から1940(昭和15)年までの5年にも満たない期間だったが、和製フリーゲンダー・ハンブルガーともいうべき、その斬新な流線型のスタイルは、当時の絵本に紹介された。

 童話にもキハ1形と思しき車輌が登場している。児童文学作家の小出正吾(1897-1990)が書いた「太あ坊」という作品で、キハ1形が東横線を走っていた1938(昭和13)年の作。鉄屑掘りの「太あ坊」こと、太一少年が、工場街の本所から郊外の多摩川付近へ、ガソリンカーに乗ってやってくる。

 そこは本所とは反対に、東京の西南の側にあたる多摩川の近くの新開地なのです。青い青い丘がつづいてきら/\と輝く太陽の下に雑木林や麦畑があります。その向ふを黄色い流線型のガソリンカーが、物すごいスピードで走つて行きます。お父さんと太一とは、そこのごみすて場跡の広っぱをほりくづして平にするのです。そして、その土になりかゝつてゐるごみの中から、鉄屑をひろひ出すのです。

(略)親子は満員の割引電車を二度も乗りかへて広い東京の街を横ぎつた末、とうとうしまひに流線型のガソリンカーへ乗りました。そしてまるで遠足のやうなぐあひに気持のよい窓の外の景色をながめながら、ある小さな停車場へつきました。

 小出正吾は東横電鉄沿線の奥沢に住んでいた。家の近くにはゴミで埋め立てられた沼があり、そこへ毎日、鉄屑掘りにやってくる父子がいたという。
 当初あったサブタイトルは「鉄屑掘りの子どもが掘りだされた話」。作品では、太一少年が田園住宅に住む「旦那さん」と出会い、工場に勤めながら夜学に通うことになる。
 前述の引用には「黄色い流線型のガソリンカー」とある。キハ1形は国鉄の旧気動車色のようなクリームとブルーのツートンとして紹介されることが多いが、実際はどうだったのだろう。当時の絵本を見るとイエローとブルーに描かれている。キハ1形の窓周りは、クリームにも見える淡いイエローだったのかもしれない。
 「太あ坊」は原稿用紙で20枚足らずの短い作品。そのなかに「流線型のガソリンカー」が5回もでてくる。ガソリンカーを、新開地の象徴として繰り返し登場させている。

 菜の花が咲き、雲雀が鳴きました。川ぞひの道には、いく組も/\つみ草の子どもたちや、散歩の人たちがやつて来ました。麦畑のむかふの丘を、流線型のガソリンカーがいそがしさうに走りました。

 「太あ坊」は戦前の作品ということもあり、『小出正吾児童文学全集』(審美社・2000)に収められたものでは、「支那事変のニユウス」が「戦争ニュース」になるなど、あちこち加筆されている。
 「ガソリンカー」は今日でも分かりやすく「新型電車」に。最後の章の「麦畑の向ふの丘を、流線型のガソリンカーが通つて行きました」は、繰り返しを避け、「麦畑の向こうの空を銀色の旅客機が一機、飛んで行くのが見えました」に変えられている。

絵本に描かれた東横電鉄キハ1形。
「東横デパートの思ひ出展」にて。(2020年)