昭和モダンの恋と電車と

西條八十の流行歌の歌詞にみる鉄道

「東京行進曲」(4番)
シネマ見ませうかお茶のみませうか
いつそ小田急(をだきふ)で逃げませうか
変る新宿あの武蔵野の
月もデパートの屋根に出る。

 戦前から戦後にかけ、数多くの流行歌の歌詞を手がけた詩人の西條八十(1892-1970)。その代表作「東京行進曲」(作曲:中山晋平・歌:佐藤千夜子)に小田急が歌われるのはよく知られている。レコードの発売は1929(昭和4)年、小田急はその2年前、1927(昭和2)年に開業した。歌詞にある「シネマ」や「デパート」と同様、郊外電車は昭和初期のモダンな存在だった。
 当時、「いつそ小田急で逃げませうか」の歌詞を聴いた小田急の重役が、社名を略されたうえ(開業当初の社名は小田原急行鉄道。のち、小田急の略称が定着し、社名も小田急電鉄に)、“駆け落ち電車”にされたことに腹を立て、レコード会社に怒鳴り込んだというエピソードがあるが、一方で、小田急が「東京行進曲」のレコードを買い込み、宣伝としてバラまいたという話もある。
 もともと小田急のでてくるくだりは「長い髪してマルクス・ボーイ 今日も抱へる『赤い恋』……」だったのを、官憲がうるさそうだからと急遽書き替えたものといわれる。紀伊國屋書店の創業者、田辺茂一の随筆『わが町・新宿』(1976・サンケイ出版/2014・紀伊國屋書店)によれば、「いつそ小田急で逃げませうか」は、なにやらハプニングがあって、西條八十とある女性がベッドの下に隠れていたときに彼女が囁いた言葉だとか。田辺茂一が西條八十から直接聞いたという。
 浅原六朗の随筆『都会の点描派』(1929・中央公論社)では、新宿で見かけたある女性が「ランデヴウのパアトナア」に、「小田急にしませうよ。××温泉あたりまで行つたつていゝぢやないの」と囁いていた。文末に(昭3・11) とあるから「東京行進曲」が発売される前。既にその頃から小田急の略称で呼ばれ、箱根へ向かうカップルの“ロマンスカー”として使われていたことが分かる。
 ちなみに、1931(昭和6)年に発売された同じ西條八十作詞の「梨木小唄」(作曲:町田嘉章・歌:羽衣歌子)には東武電車がでてくる。歌詞の内容からご当地ソングとして依頼されたのだろう。

「梨木小唄」(3番)
東武電車につい誘はれて
恋の赤城の紅葉狩(もみぢがり)
暮れてうれしい梨木の宿
肌も紅葉の湯の加減。
  遠くて近いが恋のみち、
  梨木、湯の里、恋の里

 西條八十は「東京行進曲」の10年後の1939(昭和14)年に発売された「東京ブルース」(作曲:服部良一・歌:淡谷のり子)にも、また小田急を登場させている。

「東京ブルース」(4番)
昔恋しい 武蔵野の
月はいづこぞ 映画街
ああ 青い灯(ひ)赤い灯 フイルムはうたふよ
更けゆく新宿 小田急の窓で
君が別れに 投げる花

 戦後、小田急は社名の普及に貢献した西條八十を箱根に招き、かつての非礼を詫びて終身乗車パスを贈呈した。そんなこともあってか、1951(昭和26)年には「君さそうグリーンベルト」(作曲:上原げんと・歌:鶴田六郎)、「ほんのり気分」(作曲:上原げんと・歌:久保幸江/有木山太)、翌年には「湯の町小唄」(作曲:上原げんと・歌:久保幸江/鶴田六郎)など、小田急やその観光地の地名を入れた歌を作詞している。西條八十は実際に家族と好んで箱根へでかけたという。

「君さそうグリーンベルト」(3番)
シネマ帰りに 小田急の汽笛
聞けばまた湧く 旅ごころ
伊豆のいで湯の ひと夜の夢が
忘れられない 紅椿

「ほんのり気分」(2番の一部)
飲んであの子と 踊ったすえは
いっそ小田急で 湯の町へ

「湯の町小唄」(5番)
粋な小田急の ロマンスカーも
二度は忘れず 来るものを
お湯なら湯本と 塔の沢
ホイなぜにあなたは チョイト今日見えぬ

 「湯の町小唄」には「ロマンスカー」という言葉がでてくる。小田急が列車にロマンスカーの名称を用いるようになったのは1949(昭和24)年から。「湯の町小唄」に歌われたのは初代ロマンスカーの1910形か、それとも全席転換クロスシートとなった1700形か。
 ロマンスカーといえば後年の1961(昭和36)年に作られた、3000形SE車のオルゴール音「ピポー」を連呼するCMソング、「小田急ピポーの電車」(作詞作曲:三木鶏郎・歌:ザ・ピーナッツ/ボニージャックス)があるが、それ以前にもこのような歌が作られていたのだった。
 なお、1950(昭和25)年に発売された「東京夜曲」(作詞:佐伯孝夫・作曲:佐々木俊一・歌:山口淑子)にも小田急が歌われている。作詞の佐伯孝夫は西條八十の門下生だった。

「東京夜曲」(3番)
二人一つの想い出の
匂い薔薇よ小田急よ
やさしいソファーに 燃える身を
ああ 投げて夢見る 夢の果て
甘い吐息か 東京セレナーデ

 ところで「東京行進曲」には、小田急だけでなく地下鉄も登場する。

「東京行進曲」(3番)
広い東京恋故(ゆゑ)せまい
いきな浅草忍び逢ひ
あなた地下鉄私はバスよ
恋のストツプまゝならぬ。

 レコードが発売された当時、地下鉄は1927(昭和2)年の末に開業した東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)の上野〜浅草間のみ。前述した『都会の点描派』には、東京で地下鉄に乗ったことが田舎に帰って土産話になるとある。地下鉄は東京で最もモダンな乗り物だった。
 地下鉄の開業間もない頃、雑誌の記者をしていた上林暁が「地下鉄道見参記」(「改造」1928.3)を書いている。

 毎日汲み出すといふレエルの間の溝に澱んだ水を眺めてゐると、向うからカアがやつて来た。それが停ると、こちらのカアが警笛を鳴らして、不愛想なセメントの壁の中を走り出した。隧道の天井の灯がこぼれるやうに車窓の上部から掠めて過ぎる。
〈略〉全線一哩三分、ゆつくり走つて五分時の間は、少くとも我々は現実世界から遊離して、ソロモンの壺にでも封じ込まれてゐるやうな妖精じみた感触を全身に感じながら、はるかに知らぬ世界を旅行してゐるのだ。

 大げさな喩えが、いかにも地下鉄初体験らしい。西條八十は1935(昭和10)年発売の「東京双六」(作曲:江口夜詩・歌:松平晃/ミス・コロムビア)にも地下鉄を登場させている。

「東京双六」(3番)
花の浅草 みどりの上野
むすぶ地下鉄 恋の闇
うごく途端に燈火(あかり)が消えりや
ここが東京のエチオピヤ。

 「うごく途端に燈火が消えりや」とは、かつての地下鉄車両の、ポイント通過時に消えていた照明をいっているのだろうか。「東京のエチオピヤ」は意味不明だが、当時、ムッソリーニのイタリア軍がエチオピアに侵攻したことから、危険な場所を意味しているのかもしれない。
 このほか、東京地下鉄道が銀座まで延長された1934(昭和9)年には、「主婦之友」(1934.5)に「地下鉄」と題した詞を掲載している。「ゴー・ストップ」「カフェー」「フルーツ・パーラー」など、銀座のモダンな風物をモチーフとした「唄の銀座に絵の銀座」のなかの一つで、西條八十の詞に“モガ”を得意とした田中比左良がイラストを添えている。

「地下鉄」
洞穴(ほらあな)の口でランデヴー、
土龍(もぐら)の恋ぢやありません、
モダン銀座の景色です。

眩い春の日を避けて、
恋の暗路(やみぢ)をしんみりと
ゆく地下鉄もオツなもの。

彼女左翼ぢや無いけれど、
今日恋人と手をとつて
地下に潜入いたします。

 「彼女左翼ぢや無いけれど」というのが詞にそぐわない感じがするが、前述した「マルクス・ボーイ」がその頃の流行語で、マルキストを装うのがお洒落だったように、「左翼」という言葉もモダンな響きだったのか。
 銀座開通の3か月後、さらに新橋まで延長されると、東京地下鉄道は「東京小唄」(作詞:佐藤惣之助・作曲:佐々紅華・歌:藤本二三吉)、「僕の東京」(作詞:佐藤惣之助・作曲:江口夜詩・歌:松平晃)といったCMソング的なレコードを作り、優待乗車券つきで各地に配ったという。西條八十とは関係ないが、ついでにその歌詞も紹介しておく。

「東京小唄」(2、4番)
下に地下鉄 ありやせのせ
二階は銀座 こりやせのせ
上り 上り下りの よいよやさの 夕涼み

逢ふて浅草 ありやせのせ
別れて上野 こりやせのせ
またの またの逢瀬は よいよやさの 新橋で

「僕の東京」(3番)
かはす微笑み リラの花束
かほる地下鉄 懐かしの都
ランランララララ 僕の東京

 昭和初期、ケーブルカーもまたモダンな乗り物だった。西條八十は、「マダム神戸」(作曲:中山晋平・歌:佐藤千夜子)、「京都行進曲」(作曲:中山晋平・歌:四家文子)、「強羅をどり」(作曲:中山晋平)、「四季の日光」(作曲:奥山貞吉・歌:米倉俊英/関種子)など、鉄道会社や観光地から依頼されたと思われるこれらの歌にケーブルカーを登場させている。

「マダム神戸」(3番)
摩耶(まや)はケーブル六甲はリンク 恋のリユツクサツク肩にかけ
山のすみれを外人墓地に あげる日曜二人づれ

「京都行進曲」(2番)
行こか京極 戻ろか吉田
ここは四条のアスファルト
比叡のケーブル 灯(ひ)ともし頃は
胸に想ひの灯もともる

「強羅をどり」(7、9番)
ハー 恥かしや
わたしや強羅の
 ケーブルそだち
旅のおかたに
旅のおかたに
 のぼりつめ。

ハー またおいで
登山電車は
 チヨイト段梯子(だんばしご)
強羅 東京の
強羅 東京の
 中二階。

「四季の日光」(2番)
夏の日光、ヨットの白帆、
今日もゆくゆく、幸(さち)の湖(うみ)。
  おや、誰だか振つてる、ハンケチを、
  男体山(おやま)のぼりのケーブルカー。

 「東京行進曲」の翌年の1930(昭和5)年に発売された「京都行進曲」は、その二番煎じ的な歌。比叡山へ登るケーブルカーは八瀬〜比叡間と坂本〜延暦寺間の2路線があるが、京都市街の地名がでてくるので前者の叡山ケーブルを歌ったのだろうか。
 「強羅をどり」は後に劇作家となる北條秀司が、箱根登山鉄道庶務課長をしていた時代に依頼したもので、西條八十主宰の詩雑誌「蝋人形」(1935.9)に掲載されている。北條秀司は草軽電鉄の駅を舞台とした戯曲「山鳩」(後に映画化)で知られる、軽便や路面電車が好きな作家でもあった。

*掲載詞の主な出典:『西條八十全集』8、9(1992、1996・国書刊行会)

浅間高原

俳人青邨の知られざる名随筆

 高浜虚子に師事した俳人で、随筆家としても知られた山口青邨(1892-1988)。『花のある随筆』(1934・龍星閣)所収の「浅間高原」(1931)は、青邨が小瀬温泉から草津温泉へ向かった一人旅を綴ったもので、今はなき軽便鉄道、草軽電鉄でのできごとなどを、ユーモアをちりばめて描写している。

 昭和の初め、まだ電気がなく、宿ではランプを灯していたという小瀬温泉。そんな鄙びた温泉に泊った翌日、青邨は宿の子どもにトランクを持たせて草軽電鉄の長日向駅に向かう。草津行きの下り列車に合わせて宿をでてきたのだが……。

〈略〉駅に来て見ると誰も居ない、家の中を覗いて見ると駅員が一人、靴を穿いたまゝ上り端に仰のけになつて寝てゐる、グーグーと鼾さへ聞える、僕は成るべく知らんふりをして、何とかして自然に起してやらうと靴の音をさせたり、話をしたりした、それでも知らないで眠つてゐる、宿の子供がそこの入口の敷居にトランクをゴツンと置いた、と同時に駅員は眼をさました。そこで
 「電車は来るでせうね」と聞くと
 「えゝ、今度は三時何分です、えゝ、と、今度のはこゝへはとまりませんから」
 そんなことを言ひながら、起きて帽子を被つた、金ピカの筋の帽子を被ると、その人は駅長さんだつた、尤も駅長さんと言つても、外に誰もゐるぢやなし、何でも一人でする駅長さんである、まだ若い人だ、

 手元にある昭和10年代の時刻表を見ると、長日向など途中駅に止まらない列車が何本かあったようだ。
 駅長はさっきも同じような客が来て、隣の小瀬温泉駅まで歩いてもらったと話す。しかし、時間は既に小瀬温泉を出た下り列車がこちらへやって来る頃であった。

 「飛び乗りは出来ないでせうね」
 「いや、さういふことは出来ません」
 「困つたなア、どうも」
 そのうちに駅長は僕のことがだん/\気の毒になつて来たやうであつた。
 「こゝで、上りと下りがすれ違ひになるのです、若し下りが先に来れば、上りを待つてゐなければなりませんから、もしかすれば乗れるかも知れません」
〈略〉
 チン/\、チン/\と電鈴が鳴つて来る、……又暫らくするとチン/\、チン/\と電鈴が鳴つて来る、
 「大丈夫、乗れます、もう下りが向ふの駅を出ましたから、上りより早く来ます、大丈夫です」
 駅長は向ふへ行つて、下りのシグナルを下した、すると、下の方から、落葉松の林の中から、軋る音がして、電車が現はれて来た、と、今度は、上の方から、ガーツと音がして、もう一つの電車が現はれて来た、駅長は今度は上の方へ走つて行つてシグナルを下した、〈略〉

 青邨が急いで来た列車に乗ると、それを見ていた駅長が手を横ざまに大きく何遍も振った。慌てて方角を間違え、上り列車に乗ってしまったのだった。

〈略〉その時はもう、だん/\スピードを上げようとしてゐる時であつた、〈略〉僕は思ひ切つて飛び下りた、トランクを持つてゐる重さと、電車の反動とでよろ/\とよろめいた、だが、一生懸命に踏みとゞまつて、転ぶのを持ちこたへた、そして、そのまゝの姿勢で、まだ動かずにゐる電車に向つて駆け出した。
 之に出られてはたまらない、僕は駅長にも眼を呉れず、ばた/\と急いで乗つたのである、さうしてから駅長に向つて挨拶をした、
〈略〉電車はがた/\と音して、草津に向つて発車した、僕は、バスター・キートンの冒険を思ひ出した、この山間の小駅で、この小さな冒険を伴ふ喜劇を演じたのだ、トランクをぶら下げて、昇降台を飛び降りる時の悲愴な気持、いや全く活動写真のアドヴェンチュアだ。

 青邨は列車の中で、長野から来たという婦人にリンゴを貰い、車窓を眺めながら彼女の話を聞く。貸切になっている隣の客車からは蓄音機らしい朗らかな音楽が聞こえてきた。

 窓外には女郎花や桔梗や吾亦紅がすでに咲いて居た、それにまじつて、花菖蒲が咲いてゐた、又甘草の花が咲いて居た、そして所々に白樺がさゞめいて居た、それは高原特有の眺望であつた。
 「八月の十二日は長野ではお盆の花市が立ちましてね、善光寺様の門前は桔梗や女郎花などの秋草で埋まるんでございますのよ、それがみんなこの辺から取つて行くのです、軽井沢から貨車に積んで参るんですの」
〈略〉
 電車が草津に近づくに従つて秋草の色はだん/\に濃くなつて行つた。

 「浅間高原」を収めた『花のある随筆』には、ほかにも軽便鉄道やトロッコがでてくる作品がある。
 「檜原湖」(1927)では裏磐梯の檜原湖まで行くのに、川桁から樋の口まで沼尻鉄道に乗車したことが綴られている。

〈略〉この電車は沼尻といふ硫黄山まで行つて居るので、掘りだした硫黄を運ぶ為めのものだ。だから客車の外に貨車をつないでゐる。それに乗つて桑畑の中を通たり、田のへりを過ぎたりして行く。
 磐梯山は少しの雲もなく、眼前に峨々と聳えてゐる。大きな山だ。〈略〉田には人や馬が働いてゐる。田掻をしてゐる処もある。田植をしてゐる処もある。畔には何といふ花か知らないが、黄色い菊の様な花が茎を高く抽いて咲いてゐる。萱草の赤い花もある。田掻馬にくつついて小馬が泥田の中をぼちや/\追つかけてゐる。〈略〉

 汽車のはずが“電車”と記しているのが残念だが、磐梯山や馬が田掻きをしている風景など、初夏の沼尻鉄道の車窓が描写されている。
 また、鉱山の視察を題材とした(青邨の本業は地質学)創作風の「旅先でのこと」(1930)では、山間の小さな駅と鉱山を繋ぐ軌道のトロッコに乗るシーンが幾度かでてくる。

 鉱山長とO君はその靄の中にうつすり見えて居る吊橋のところからトロに乗つて鉱山の役宅まで帰つて行くのである。トロがコロ/\コロ/\と静かな澄んだ音を立てゝ暫く聞えて居た。

 最後に青邨の俳句を一句。

シグナルに咲きそふ山のをみなへし

 秋草の女郎花と信号のある風景が、「浅間高原」に描かれた草軽電鉄の小駅を思わせる。

北軽のことなど

「高原の軽便鉄道と文学者たち」訂正補遺

 3年前、草軽電鉄のでてくる文学作品を紹介した「高原の軽便鉄道と文学者たち――草軽電鉄」(東京書籍刊『読鉄全書』所収)を執筆した。近年、ウェブ向けの原稿ばかり書いていた自分にとって、久しぶりの紙に印刷される著作となった。ウェブの仕事をしていながらこんなことを書くのもなんだが、やはり文章はディスプレイより紙の方が読みやすい。それでもウェブは掲載した後も簡単に文字を修正できるのがいい。このサイトでも、しれっとあちこち直していたりする。
 「高原の軽便……」に今のところ大きな間違いは見つかっていないが、二、三のちょっと気になった箇所について、ここに記しておく。

〈229頁20行目〉
業平橋駅→旧・浅草駅
〈230頁4行目〉
業平橋駅→駅

 明治末、幼年期の堀辰雄が親しんだ東武鉄道の始発駅(現・とうきょうスカイツリー駅)について書いたが、その頃の駅は一時廃駅になったり、吾妻橋駅と称していたのが浅草駅に変わったりとややこしい。このあたりのことは今尾恵介氏の『地図と鉄道文書で読む私鉄の歩み』関東2(2015・白水社)に詳しい。

〈241頁17行目〉
「草分けの頃・戦中・戦後」によると、
 
随筆の「巣箱」(一九七〇年)や「草分けの頃・戦中・戦後」によると、

 草軽電鉄が、沿線の北軽井沢に法政大学村をつくった関係者の一人、野上弥生子にパスを贈ったこと、そのパスが更新されても年齢が変わらなかったことは、弥生子の随筆「巣箱」に書かれている。

〈略〉会社は私たちの村づくりを歓迎してパスをくれた。ところが夏ごとに新しく取りかえられても、中身は最初に渡されたものと一向に変らない。私のパスについていえば、姓名と並んで書かれた年齢の四十四歳が、毎年四十四歳にとどまった。このことは「不死」までにはいかずとも、「不老」だけは証明されたものだとしてよろこんで笑いあったが、パスは数年後にうち切られた。ちっぽけな高原電車の経営者は、ギリシア神話のゼウスの大神ではなかったわけだ。

 「高原の軽便……」では、弥生子が99歳で天寿を全うするまで旺盛な活動を続けられたのはこのパスのおかげだったのではと、面白おかしく紹介したが、ここにある通り、パスは数年で打ち切られたようである。

 ところで、法政大学村の開村後、最寄り駅の地蔵川が北軽井沢に改称されたのは、駅舎の新築に併せてと書いた。大学村の年誌にもそうあるが、実際には1929(昭和4)年から翌年の駅舎新築以前、大学村ができた1928(昭和3)年に改称されたらしい。
 宮田憲誠氏の『遠い日の鉄道風景』(2001・径草社)には、昭和3年6月1日に駅名変更とある。出典が記されていないが、「昭和3年7月改訂」と時刻表に記された草軽電鉄の沿線案内に北軽井沢の駅名が載っていることから、やはりその頃の改称と思われる。なお、昭和3年2月29日には、鉄道大臣宛に「地蔵川ヲ北軽井沢ト駅名改正届」が提出されている。
 ちなみに、軽井沢駅から20キロも離れたこの場所を北軽井沢と命名したのは誰だったのか。同じ大学村に別荘をもっていた岸田國士の長女、岸田衿子の随筆「カブトムシ」(1999)には、野上弥生子の提案らしいとあるが、弥生子の随筆風な小説「草分」(1944)では、「北軽井沢。――たしかに北には違ひないが、南軽井沢が本家の避暑町からほんの一筋の汽車路しか隔たつてゐないのに引きかへ、これは五里も北方にかけ離れてゐる。もし文字に距離が表はせるものなら、北――軽井沢、とダッシュを二三寸も長く引くべきであつた。」と、この名称に否定的だ。
 『大学村五十年誌』(1980・北軽井沢大学村組合)に掲載された安藤良雄の「松室致とその想い出」によると、「その名付親は大学村の造成の実務の中心となったH氏であるといわれている。」、また、同じ年誌の弥生子による「草分けの頃・戦中・戦後」には「高原の夏の村作りに頭領格で働いたのは、浜田政治郎なる人物でした。」とある。
 浜田政治郎とは法政大学の嘱託だった建築業者で、名付け親のH氏とは、おそらく彼のことなのだろう。

 もともと別の本に掲載する予定だった「高原の軽便……」は、若山牧水から南木佳士まで、草軽電鉄の登場する小説、戯曲、随筆、詩を網羅したものだったが、『読鉄全書』に収められることになり、文章量を3分の1程度に減らして、堀辰雄、野上弥生子と、その周辺の作家のみに絞った。
 山口青邨の知られざる名随筆など、紙数の都合で割愛した作品については、近いうちにこのサイトで紹介したい。

豆新幹線は“早かった”

僕の電車漫筆[1]

 押入れの奥から自分の幼少時代のアルバムがでてきた。2歳の誕生日の写真には、デコレーションケーキを前にご満悦の自分らしき幼児。ケーキの傍らには新幹線の玩具も2両並んでいる。東海道新幹線の開業は1964(昭和39)年10月、2歳の誕生日はその前年の2月だから、玩具は新幹線開業よりも前に作られたものだ。


ケーキの傍らには新幹線の玩具
(1両は連結面)

 写真の玩具をよく見ると、1962(昭和37)年4月に完成していた新幹線の試作車ともまた違った形をしている。凹んだ「光前頭」と、それより高い位置にある前照灯が独特で、とぼけた顔に見える。また、塗色もボンネットの上で塗り分けている。よく似た塗り分けの玩具をほかにも見たことがあるので、試作車完成以前のスケッチに、このようなものがあったのかもしれない。
 アルバムには横浜の、今はなき野毛山遊園地で撮られた写真があり、そこには先頭車両が新幹線形だった豆電車が写っている。撮影は1963(昭和38)年6月、この豆新幹線も実物の開業より早い。
 野毛山遊園地の豆電車は、開園当初、隣接する動物園の猿を乗せた「お猿の電車」で、立派なビューゲルをつけたL形の電気機関車が牽引していた。その後、昭和30年代の半ば頃に、新幹線を寸詰まりにしたような車両に替わったが、1964(昭和39)年6月で遊園地が閉鎖されてしまったため、わずか数年の運転、しかも実物の開業より前に廃止となってしまった。
 野毛山遊園地に豆新幹線が登場したのと同じ頃の1962(昭和37)年4月には、上野動物園の「お猿の電車」も、それまでのドッグノーズ形をしたアメリカ風の機関車から新幹線形に替わっている。
 上野動物園のものもズングリとした独特なスタイルで、当時の絵本に描かれたのを見ると真っ赤に塗られていたようだ。


『たのしいどうぶつえん』(1964・小学館)より

 アルバムにはまた、幼稚園の遠足で訪れた、やはり今はなき二子玉川園の写真も収められている。不安げな顔で自分が乗っている新幹線形の豆電車は、野毛山や上野のものとは違い、新幹線の0系をほぼ正確に模した形だ。撮影は1965(昭和40)年4月、東海道新幹線の開業から半年後である。
 豆新幹線は実に“早かった”。