緑の丘を走る流線型

小出正吾「太あ坊」の東横キハ1形

 東横電鉄(現・東急)のキハ1形は、1936(昭和11)年に電力消費を抑える目的で導入した気動車だった。
 だが、折悪しく翌年に日中戦争が勃発、ガソリン価格が高騰したことから、わずか数年の活躍で他社に譲渡されてしまった。
 キハ1形が東横線を走ったのは1936年から1940(昭和15)年までの5年にも満たない期間だったが、和製フリーゲンダー・ハンブルガーともいうべき、その斬新な流線型のスタイルは、当時の絵本に紹介された。

 童話にもキハ1形と思しき車輌が登場している。児童文学作家の小出正吾(1897-1990)が書いた「太あ坊」という作品で、キハ1形が東横線を走っていた1938(昭和13)年の作。鉄屑掘りの「太あ坊」こと、太一少年が、工場街の本所から郊外の多摩川付近へ、ガソリンカーに乗ってやってくる。

 そこは本所とは反対に、東京の西南の側にあたる多摩川の近くの新開地なのです。青い青い丘がつづいてきら/\と輝く太陽の下に雑木林や麦畑があります。その向ふを黄色い流線型のガソリンカーが、物すごいスピードで走つて行きます。お父さんと太一とは、そこのごみすて場跡の広っぱをほりくづして平にするのです。そして、その土になりかゝつてゐるごみの中から、鉄屑をひろひ出すのです。

(略)親子は満員の割引電車を二度も乗りかへて広い東京の街を横ぎつた末、とうとうしまひに流線型のガソリンカーへ乗りました。そしてまるで遠足のやうなぐあひに気持のよい窓の外の景色をながめながら、ある小さな停車場へつきました。

 小出正吾は東横電鉄沿線の奥沢に住んでいた。家の近くにはゴミで埋め立てられた沼があり、そこへ毎日、鉄屑掘りにやってくる父子がいたという。
 当初あったサブタイトルは「鉄屑掘りの子どもが掘りだされた話」。作品では、太一少年が田園住宅に住む「旦那さん」と出会い、工場に勤めながら夜学に通うことになる。
 前述の引用には「黄色い流線型のガソリンカー」とある。キハ1形は国鉄の旧気動車色のようなクリームとブルーのツートンとして紹介されることが多いが、実際はどうだったのだろう。当時の絵本を見るとイエローとブルーに描かれている。キハ1形の窓周りは、クリームにも見える淡いイエローだったのかもしれない。
 「太あ坊」は原稿用紙で20枚足らずの短い作品。そのなかに「流線型のガソリンカー」が5回もでてくる。ガソリンカーを、新開地の象徴として繰り返し登場させている。

 菜の花が咲き、雲雀が鳴きました。川ぞひの道には、いく組も/\つみ草の子どもたちや、散歩の人たちがやつて来ました。麦畑のむかふの丘を、流線型のガソリンカーがいそがしさうに走りました。

 「太あ坊」は戦前の作品ということもあり、『小出正吾児童文学全集』(審美社・2000)に収められたものでは、「支那事変のニユウス」が「戦争ニュース」になるなど、あちこち加筆されている。
 「ガソリンカー」は今日でも分かりやすく「新型電車」に。最後の章の「麦畑の向ふの丘を、流線型のガソリンカーが通つて行きました。」は、繰り返しを避け、「麦畑の向こうの空を銀色の旅客機が一機、飛んで行くのが見えました。」に変えられている。

絵本に描かれた東横電鉄キハ1形。
「東横デパートの思ひ出展」にて。(2020年)

港街のトラムの詩

竹中郁と野村英夫

 稲垣足穂と並ぶ神戸のモダニズム詩人、竹中郁(1904-1982)。最初の詩集となる『黄蜂と花粉』(海港詩人倶楽部・1926)の巻頭を飾るのは、市電の撒水車をモチーフとした作品だ。

「撒水電車」
この移動噴水は
懶い午睡(ナツプ)をさましてゆく

見よ!
颯爽と
街路(まち)の篠懸樹(プラタン)は整列した

 かつて、路面電車の撒水車による水撒きは、都会の夏の風物詩だった。
 『鉄道ファン(1971.4)掲載の宮崎光雄「神戸市電車両史」によれば、1922(大正11)年、12両あった撒水車の5両が廃車され、その台車、電気部品がF車(後の400形)に使用されたとあるから、詩が発表された1925(大正14)年には、神戸市電に7両の撒水車が在籍していたようだ。5両の廃車は舗装道路が増えたことによるものか。ちなみに日本初のアスファルト舗装は1913(大正2)年、神戸の元町通りだという。
 プラタンとはプラタナス、スズカケのことで、詩の発表される1年前、神戸市電の沿線にプラタナスや銀杏を植える計画が『大阪朝日新聞』に載っている。プラタナスは当時、西洋の街を彷彿とさせるモダンな樹木だった。
 夏の風物詩といえば、アイスクリームもその一つ。『黄蜂と花粉』には「氷菓」という詩も収められている。鉄道とは関係ないが、「撒水電車」と同様に軽やかでモダンな佳作なので、ついでに紹介しておこう。

「氷菓(アイスクリーム)」
こんな冷たい接吻(ベゼ)があるものか
それにうつかりしてゐると
対手(あひて)は夢のやうにとけてしまふ
はかない恋の一時(ひととき)だ!

 第二詩集の『枝の祝日』(海港詩人倶楽部・1928)にも市電の詩が載っている。

「街角」
電車の曲折(カーブ)する音が
店の飾窓(シヨウウインドウ)にびりりとひびく

映つてゐる日傘(パラソル)の女が
身体中(からだぢゆう)でしばらく笑つた

 車輪とレールの擦れる音、スキール音が窓ガラスに響く。そこに映った女性の姿が震えて、笑っているように見えたのか。日傘とあるので、これも夏の詩。

 もう一つ、神戸と思しき街の路面電車を題材とした詩を紹介しよう。堀辰雄に師事し、31歳で夭折した詩人、野村英夫(1917-1948)の作品だ。

「初めての蝶」
水色の市街電車が
走つて来た。
水色の市街電車は
蝶のやうに停つた。
亜麻色の髪毛の少女が
唯一人窓に凭れてゐた。
水色の市街電車は
走つて行つた。
緑色に芽生えた
街路樹の間を
まるで蝶のやうに。
人は誰れもゐなかつた。
四月は何処にもあつた。
さうして初めての蝶は
軽さうに飛んでゐた。

 市電を蝶に喩えたこの詩は、野村英夫が亡くなる1948(昭和23)年11月の2か月前に発表された小説「春は薄緑の服を着て」の冒頭にでてくる。
 神戸市電に水色の電車など走ったことはないが、小説の文中に「K……市」とあり、また、その描写からも神戸をイメージしたものと思われる。

 山手下通りの教会の前で厚夫は市街電車から身軽に降りた。四月始め頃の日曜日の午後だつた。山手から市街地を通つて波止場にかけて、空には灰色がかつた軽い雲が浮んでゐた。日曜日で、しかも午後のせゐか、教会の前にも、舗装道路の西側に並んだ商館や、左手の市庁の建物の前にも、殆ど人影らしいものが見当らなかつた。(略)

 栄光教会や兵庫県庁(現・兵庫県公館)が並ぶ、昔、神戸市電が走っていた下山手四丁目あたりのようだ。

(略)次の市街電車がやがて彼を追ひ越して行つた。水色に塗られた市街電車は、薄緑色に芽生えた街路樹の間を、ガタンガタンと如何にも軽さうに走つて行つた。一人の亜麻色の髪の少女が、窓からぼんやりと波止場の方を見てゐるのが見えた。

 主人公の厚夫はその光景を見て、ラウル・デュフィの絵を連想する。
 水色の市電は野村英夫の創作か、それともなにかモデルがあったのか。
 1940(昭和15)年の東京オリンピック開催に向けて、東京市電にクリームと水色のツートン、窓枠とドアをニス仕上げとした電車が走ったことがあった。また、「春は薄緑の服を着て」が発表された昭和20年代初め、同じ港街の横浜にも、東京市電のオリンピック塗装と似たものが登場している。

「軽便鉄道」の本島三良

宮澤賢治を見出した鉄道趣味人

 晩春の黄昏時(たそがれどき)であつた。周囲(あたり)は次第に薄闇(うすやみ)のなかにとけ込んで、丸い月が森の彼方から上りはじめた。雑木林や森に囲まれた駅長と駅員二人しかゐない小さな駅で私は茫然(ぼんやり)と汽車を待つてゐたのである。やがて森の向ふでポーといふもの寂しい汽笛が聞えたかと思ふと、暫くして微かな点燈が薄暮の中に揺れて、軽便鉄道の列車が目の前に現はれた。ちつぽけなアメリカ製のタンク機関車が後ろ向きに自分よりはるかに大きい客車を二輌牽引して止つたが、降りる人もなく、私を乗せると再び悲鳴に似た汽笛をあげて、シリンダーから一杯蒸気を吐出し乍らゴトンゴトン走り出した。(略)

 小説を思わせる書き出しのこの文章は、昭和初期から活動していた鉄道趣味人で、『鉄道ピクトリアル』の初代編集長でもあった本島三良氏(1904-1988)のエッセイ。月刊『旅』の1939(昭和14)年5月号に掲載された「軽便鉄道」である。
 乗合馬車など、ノスタルジックな乗物の小特集「乗物時代色」のなかの一章で、軽便鉄道の歴史や、当時既に消えつつあった各地の路線の蒸気機関車を紹介、その最後に、未だ蒸気機関車のみで運行を続けていた岩手軽便鉄道(釜石線)に触れている。

(略)又東北では花巻から仙人峠に至る六十五粁、花巻の天才詩人故宮澤賢治がその詩の中に称へた岩手軽便鉄道も、今亦官営の手に帰して最近釜石線と云ふ名称になつたが、やがて改築されて詩人の幻に見た銀河鉄道の玩具列車が現実列車に変る日も遠くはあるまい。此処には日露の戦後、満鉄が安奉線で使用したボールドウヰン製の機関車が走つてゐる。

 注目されるのは「天才詩人故宮澤賢治がその詩の中に称へた岩手軽便鉄道」とあること。エッセイの掲載時、宮澤賢治(1896-1933)は今日ほど広く知られていなかった。岩手軽便鉄道が賢治の作品のモチーフとなったことを記したのは、おそらくこれが初めてだろう。
 賢治が生前に上梓した2冊の本、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』(ともに1924年刊)は自費出版で、各千部の発行。しかもほとんど売れなかったという。賢治が亡くなった翌年の1934(昭和9)年から、高村光太郎、草野心平等の編集により『宮澤賢治全集』が刊行されるが、この全集も文圃堂という、本郷の東大前にあった小さな書店の刊行で、全3巻のうち、詩集の1、2巻が各800部程度、童話集の3巻が千部ちょっとという。賢治は一部の文学愛好家のみが知る存在だったのである。
 賢治の名が知られるようになるのは、本島氏のエッセイが掲載される2か月前の1939(昭和14)年3月に羽田(はだ)書店から刊行された『宮澤賢治名作選』がきっかけだった。
 だが、この『宮澤賢治名作選』には岩手軽便鉄道をモチーフとした作品は収録されていない。本島氏は文圃堂版の『宮澤賢治全集』を読んでいたのだろう。冒頭の小説風の描写でも分かるように、氏は鉄道だけでなく文学にも造詣が深かったようだ。
 ちなみにエッセイ掲載の翌月(6月)には、十字屋書店が文圃堂を引き継いで、全集の刊行を始めている。さらに翌年の1940(昭和15)年には「風の又三郎」が映画化され(監督:島耕二)、ようやく賢治の名が全国に広まっていった。

織田一磨の「五反田」

絵画に見る鉄道の風景

 大正から昭和初期にかけて都市風景を数多く描いた版画家、織田一磨(1882-1956)のリトグラフを収集している。同時代のいわゆる新版画、川瀬巴水や吉田博の木版画がブームで高騰しているなか、リトグラフの織田作品は比較的安く入手できるのがいい。
 ここに紹介するのは1932(昭和7)年に制作された『東京近郊八景』のなかの「五反田」。『東京近郊八景』は、荷風の『濹東綺譚』の舞台となった玉ノ井の銘酒屋や、飛鳥山の王子製紙の工場など、名所を“外した”風景を題材とした作品で、この「五反田」では池上電鉄(現・東急池上線)五反田駅付近の高架線を描いている。目黒川に架かる橋のあたりからの眺めで、高架駅には電車が停まる。電車の“おへそライト”のように見えるものは円形のサボと思われる。
 池上線の大崎広小路〜五反田間の高架線は1928(昭和3)年の開業。当初は五反田からさらに白金、品川方面へ延伸する計画だったため、ビル4階の高さで山手線を跨いでいる。
 周辺に高層建築がなかった昭和初期には、五反田のランドマーク的な存在だったのだろう。織田一磨が「五反田」を制作した年、前川千帆も『新東京百景』のなかの一点として、山手線の五反田駅ホームから望んだ池上線の高架駅を木版画にしている。